ヨハネの手紙第一4章

1ヨハネの手紙4章 キリストの神性を認める
1.偽の教えを区別せよ(4:1-6)
ヨハネは、再び、偽教師、この4章では「反キリスト」という言葉を用いて警戒すべきものがあることを語ります。つまり、同じ聖書のことばを使いながら、似て非なる信仰もあるもので注意が必要だ、ということです。
ことに、この聖書箇所の背景には、コリントの教会にも見られた「預言」活動がありました(1コリント12、14章)。ヨハネは、「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません」と言います。つまり、だれかが、これこそまことの神の教えだと言うようなことがあっても、簡単にひっかかってはいけない、と言うのです。今までの教えは、本当は間違っていて、これが正しい教えなのだというような人が現れたら、それがまず「神からのもの」なのか、それとも「偽預言者の惑わし」なのか、よくよく吟味しなさい、というわけです。
そこで、その識別のポイントとして、第一に、ヨハネはイエス・キリストを人となって来られた神であると認めるかどうかをあげています。実際のところ、これがまさに当時のグノーシス主義者の問題でした。たとえば小アジア出身のユダヤ教徒で、グノーシス派のケリントスと言う人がいましたが、彼は、ナザレのイエスは「公正賢明な人間」に過ぎないと主張し、その神性とメシヤ性を否定した、と言います。しかし、こうした問題は古い時代のお話ではありません。日本においても、1887年ユニテリアンの宣教師、A.M.ナップの来日以来、同じような信仰がキリスト教会に大きな影響を与えています。彼らは伝統的なキリスト教神学の立場である三位一体の神学に反して、イエスの神性を否定しています。またキリスト教の異端とされるエホバの証人も、三位一体の教理を認めておらず、結果、キリストの神性を否定しています。しかし、仏教、イスラム教、ユダヤ教と区別し、キリスト教をキリスト教とするものは、キリストの十字架への拘りであると同時に、キリストの神性です。ヨハネはそれによって、偽の教えを区別せよ、というわけです。
2.神の愛を理解し、その愛に生きている(4:7-21)
そして第二の識別のポイントは、教師がその神の子、キリストとの関係で生きているかどうかです(7節以降)。その人は、キリストによって神に愛されていることを理解しているでしょうか。ヨハネは言います。10節「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を使わされました。ここに愛があるのです」神の怒りを宥めるために、キリストは、私たちの身代わりとなってあの十字架の刑罰を受けてくださいました。まさにあそこに神の愛が豊かに表されたのです。それを理解し、その神の愛の深さに生きている、それがまことのキリストの教師です。
ついでに言えば、神の愛がわかっていれば、裁きの日を恐れることもなくなります。神にお会いする日、最後の審判の日は、決して恐れるものではないということがわかります。それは、私たちを心から愛してくださった神にお会いする素晴らしい日です。神の裁きを恐れる人は、まだ神の愛がよくわかっていない人です。また神の愛がわかっていれば、その神の愛に生きたいと願うようになるでしょう。神が私たちを愛してくださったから、私たちも神を愛するようになるのです。そして神に造られた同じ、兄弟姉妹を愛するようになるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「一般に神の愛は、ギリシア語でアガペー、人間的な愛を示すフィレオーやエロースとは区別されますが、アガペーの愛の特徴はどのようなものでしょうか」答えは、一方通行、ギブアンドギブの与え尽くす愛、というものです。フィレオーはギブアンドテイク、エロースはテイクアンドテイク、奪う愛と言われます。アガペーの愛は、まさに神譲りの性質として、信仰者の内に形作られるものです。では、今日の聖書クイズを一つ。キリストの神性について、端的に語っている聖書箇所はどこでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

ヨハネの言葉で言うなら、ヨハネ5:18「ご自分を神と等しくされた」であり、パウロの言葉で言うなら、コロサイ2:9があげられます。もしくはヘブル1:3

<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!