ヨハネの黙示録4章

「この後必ず起こること」とあるように、4章から新しい展開が始まる。「天に一つの御座があり」と、ヨハネの視点は、天に向けられる。これまでは、地上の七つの教会に向けてメッセージが語られていた。今度は、地上から天に目が向けられ、天上のことが説き明かされる。

まず天においては神が一つの中心となっている。「その方は碧玉や赤めのように見えた」(3節)という。イスラエルで神殿礼拝が行われていた旧約聖書の時代、大祭司の衣装の胸当てには、碧玉や赤めのうといった石の飾りがついていた。それは、神の栄光と尊厳を現す象徴であった。つまり、ここでヨハネは間違いなく栄光と尊厳に満ちた神を見ているのである。

緑玉も大体同じように考えてよいだろうが、問題は虹である。旧約聖書時代の後期、エゼキエルの時代に、虹は神の神性を意味すると解された。しかし、元々の起源はノアの洪水の物語に遡る(創世記9:12-16)。つまり伝統的な理解では、神の契約がとこしえに変わらないことの象徴なので、神の永遠の真実さ、不変さを見たということなのだろう。さらに御座の回りに24の座があり24人の長老たちが座っていた(4節)。種々の説があり、定説はない。み使いとする説と、旧約の12部族、新約の12使徒に象徴される聖徒たちとする説がある。

ともあれ、黙示録を読む時にはいくつかの点に注意しなくてはいけない。一つは、黙示録は、人類がまだ経験していないことを書いている。人類の歴史が終わった後の話である。だから、そこには当然、現代人の知性をもっても把握できないことが書かれている。また黙示録は、AD1世紀のヨハネの感覚で書かれている。つまり、ユダヤ的な背景を踏まえて書かれている。そこで、当時の人々の知識的な前提を理解しておく必要がある。当時のユダヤに流行した黙示文学という形式で書かれているのだ。それは、イメージでメッセージを伝える手法で、たとえ話に似ている。つまり細かなことを深く考えすぎて謎解きになってはならず、大まかな印象から伝わってくるメッセージを掴むことが求められていることである。

となると、5節以降は、神の御座の前で壮大な礼拝が繰り広げられているイメージを掴むことだろう。「四つのいきもの」(6節)にも、様々な説があり、具体的にどういうものかは確定し難い。そういう存在がいたという程度で受け止めておきたい。御使いであるかもしれないし、特別に造られた被造物であるかもしれない。「前も後ろも」という表現から、絶えず四方を見守っている全被造物を代表する存在とする説がある。というのも、第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった、という。ただ単に、父なる神を守るために存在したというよりも、長老たちが、神の民を現すのに対して、この生き物たちは、神の造られた世界全体を指すというわけだ。神が造られたものすべてが、神に従い、神を賛美しているイメージで捉えるべきものなのだろう。だから9節、旧約と新約で救われた全ての人が、父の前にひれ伏し神を拝している。当時の読者は、皇帝礼拝の危機に瀕していた。しかし、すべてのものが礼拝している父なる神こそが真の主であり、我らの神である、とされる。賛美し、拝すべきお方は、皇帝ではなく、真の神のみである、というわけだ。

私たちがこの地上の生涯を終えて、やがて行くであろうとされる天の御座では、神が礼拝されている。神様がおひとりぽつんといらっしゃる。あるいは、蓮の池の間を、のどかに神様が散歩されていらっしゃるというのでもなく、礼拝されている。しかも注目すべきは、「冠を投げ出して」礼拝している姿である。冠は、ギリシア語でステパノス。つまり王冠ではなく勝利の冠である。私たちが信仰の歩みを乗り越えて、また皇帝礼拝という危機を乗り越えて、信仰を全うしたとしても、それは決して私たちの誇りにはならない。神が授けてくださる栄誉の冠を、私たちは投げ出して、ただ主の守りがあったからこそ、この天への旅路も守られたのである、と告白し、拝するのみである。そして、天上で今繰り広げられているこの礼拝を覚えるならば、地上で私たちがどうあるべきか、を教えられる。今日も、まず天上に目を注ぎ、天上の空気を吸ってみる。そこから、今日の一日を始めてみることとしよう。

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