22章 完全懲悪を超えて
<要約>
おはようございます。エリファズのことばは、それ自体に慰めも励ましもありますが、文脈的に読んでいくと、それはヨブに対する辛辣な攻撃です。そして、真理のある反面、もう一つの真理があることに私たちは気づかなくてはならないのでしょう。神の偉大さ、豊かさに心を留めたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.もう観念したらどうだ(1-10節)
エリファズのことば。第三ラウンドが開始される。エリファズのことばはより攻撃的であからさまになっている。議論はいよいよ感情にエスカレートしてしまったのだ。感情的な議論は、もう何を言ってもお互いに平行線であるが、この議論に語られる。
1節「人は神の役に立てるだろうか」は、「私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか」(21:15)に呼応したことばである。つまりエリファズは、神をもはや人間とは人格的な交わりを持つことのできない超越した存在として語り、ヨブが取り上げる、神を地に降ろし、損得のみで物事を考える考え方、それ自体が、バカバカしいことを語っている。実際、人間が正しいからといって、それが全能者の喜びとなるのか。あなたが正しく生きたところで、神にどんな利益があるのか。それは、自分の義務を果たしたに過ぎないのだ。(3節、ルカ17:10)。神のご機嫌を取ろうとするなど、神を本当に恐れているのか?(4節)ただ、人間とは全く無縁で、人間を必要としない神、確かにそうした側面もあるのだろうが、神はそんなに無機質な存在なのか。違う、という気持ちも起こるところだろう。
エリファズは、何とかヨブの考えを改めさせようと、あからさまに語る「神があなたを責められるのは、あなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか」(4、5節)と。そして、ヨブにヒントを与えようと、具体的に罪のリストを並べて見せている(6-9節)。なんともエリファズは容赦なくヨブを断罪する。根拠もなく、先入観と偏見で、断罪することばほど痛いものはない。だが、人間というのは、そういうものだろう。何を根拠に、そう語るのか。聞けば、確かにあり得ないことでもない、かなと思わされても、ちょっと違うのにな、そう言おうと思えば言えことでしょうが、と心が疲れてしまうような言いがかりに反論し難い思いを抱くものはあるものだ。
ビルダデは一般的な言い方をしたが(18:8-10)、エリファズはヨブに対して直截である。そして、結果、突然の神の逆襲に、今あなたは八方ふさがりの思いで恐れている、というわけである(10、11節)。
2.神は悪者を確かに罰せられる(12-20節)
エリファズは、神の超越性を強調する(12節)。そして、どうやら13節、ヨブよ、あなたは「神に何がわかろうか」と神を侮るような生き方をしてきたのではないか、とさらに推論的結論を強要する。神は、雲が濃いと地上で何が起こっているのか、さっぱりわからない。とでも思ってきたのではないか。そのように考える者たちと同じなら、あなたも同じ運命に出会うのだ(15節)。悪者はそのようにして、砂上の楼閣のごとし、あっという間に人生を崩されていく。あなたも同じではないのか(16節)、と。
同じ穴の狢なのに、あなたは、彼らはほっといてくれ、神など関係がない、という。なのに、神は彼らに寛大でよきにしてくれる。と言う(17節)。だが、私はそんな彼らとは全く関係がない(18節)。私はそんな悪者とは違う。だから言おう。正しい者は、最終的に彼らをあざ笑うことになるのだ。エリファズは、勧善懲悪の理論でヨブのことばを使いながら攻めたてている。
3.神はあわれみ深いのだから、悔い改めることだ(21-30節)
だから21節、エリファズは、ヨブが神に立ち返り、神と和らぐように、勧めている(21-23節)。そして、不当に金銀を得て、富栄えたのなら、アカンのようにそれを隠したりせず、ザアカイのように神に返し、施せという(23節)。金銀に執着する思いを捨てて、それらを手放すことだ(24節)。そうすれば、神があなたの宝となるだろう(25節)。そして神に真っすぐ自分の顔を向けることができ、また新しい人生を歩むことすらできるのだ、と(26節)。エリファズのことばは一見そのとおりのように思われる。しかしよく考えてみれば、功徳によって人は祝福されると聞こえてくるようなことばである。
ある介護施設で、高齢の女性が化粧をしてもらってたいそう喜んだという。何か嬉しかったのだろう、「まるで菩薩様のように綺麗になった」と鏡を見て言ったのだという。しかし言った瞬間、自分が菩薩様だなどとは、ずいぶん罰当たりなことを言ってしまったと気に病んでしまったという。それに対して、「そんなけち臭い方が、菩薩様、神様であるわけがない。神様は私たちが思う以上に心の広いお方ではないか」という職員が語ったことばに、また気持ちが回復して、丸く収まったというお話がある。
イエスは、私たちのあの罪、この罪を数え上げて、一つ一つ赦すために死んでくださったわけではない。私たちの人格を丸ごと受け入れるために十字架にかかってくださったのである。そのような意味では、自分に対しても、他人に対しても因果応報的に、あるいは、勧善懲悪的に物事を考え過ぎないように注意したいところではないか。つまり人の人生は、こうしたから祝福される、ああしたから罰せられる、というものではない。むしろ、神の恵み深さは計り知れない。神は、私たちのけち臭い理屈を超えて、豊かな憐れみを示し、祝福してくださるお方である。だからこそ、そこに希望がある。