32章 知恵を与える神
<要約>
おはようございます。エリフが登場します。それまで一体どこにいたのか、と思う存在ですが、彼は若輩で、年配の人達に遠慮して語らなかったと言います。彼の言い方は直截ですが、それだけに、響くものがあります。カギとなることばは、「全能者の息が人に悟りを与える」でしょう。全ての解決は上から与えられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.説得できなかった友人たちに代わって語ろう(1-17節)
エリフが登場する。いったいこの人物は何物なのだろうか?ラム族のブズ人、バラクエルの子という。「ブズ」は,アブラハムの兄弟ナホルの子の名に見られ(創22:21)、その兄弟の名がウツ、つまりヨブの出身地名であるから、エリフはヨブと同郷の人という説がある。ともあれ、何の説明もなく突如現れる。彼はこれまで三回繰り返されたヨブと三人の友人との議論には少しも口をはさまなかった。それは、自分が若輩だからだ、という理由で、今はここに至り、友人たちの言葉に説得力がなく、押さえきれなくなって口を開いた、と言う(6節)。エリフは、遠慮して、とは言うが、実際には直截である。年齢が高いからといって、必ずしも知恵があるわけでもない、と(9節)。実際あなたがたは、ヨブがこれほど、潔白を朗々と述べていても、誰一人、それに対してきちんと反論できていない。ただ自分の言い分を聞こうとしないことに怒りを燃やしているだけだ(12節)。その上、隠された大きな罪があるのだろう、だから最高裁判官である神が彼の訴えを退け、彼を法廷から追い出し、彼にこんな運命を背負わせた、と匂わせるが、あなたがたは、それを証明できないでいるのだ(13節)。
エリフは、「ヨブが神よりもむしろ自分自身を義とした」こと、また、三人の友が「ヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかった」ことを指摘する。そして、年長者に必ずしも知恵があるのではなく、知恵は神の霊とともにあることを指摘する。
ヨブが神よりもむしろ自分自身を義とした、ということその主張自体は、ビルダデと何ら変わらない。しかしヨブの誤った神への非難を正していくところに、エリフ登場の意義がある。実際エリフは、先の年長者たちのように因果応報の論理で、ヨブの苦境を説明するわけではない。むしろ、神の訓練としての目的があること、その神の目的の前にヨブが霊的な高慢の罪を犯している事実を指摘し、ヨブが神に出会うことを助けていくのである。
大切なことは、エリフが、物事を解決する力が人間の知恵ではなく、神の知恵にあること、「全能者の息」つまり上から与えられるものであることを指摘していることだろう。真に物事を解決する知恵は、私たちの思考の結果ではなく、祈りの結果である。無理難題に直面して、議論を繰り返すことよりも、額をつき合わせて祈る方が、優れている。ヤコブが勧めているように(ヤコブ1:5)、神が物事を見通す光を与えてくださるように、祈り願うことが、あらゆる難題の解決の近道であることを私たちは心得なくてはならない。
エリフは、三人の友を責めている。12節、ヨブに言い負かされたというよりも、ヨブの高慢の罪をヨブ自身に認めさせられなかったことを問題にしている。三人の友は、もはやヨブの問題は、神の裁きに任せるほかはないと突き放してしまった。しかし、それは知恵ある解決ではない、という(13節)。ここに、あくまでも天来の知恵に拘る、エリフの真の信仰と、ヨブに対する人間的な愛情の深さがあると見てもよい。彼は言う。これまで、ヨブは私に何も語っていないのだから、私はもっと違った観点から語ってみることにしよう。彼らはもう、呆れて何も言おうとしないが、私は、これ以上ここで黙っておらず、自分の言い分を述べることとしよう、と。
2.私の心は言いたくて沸き立っている
エリフの心は、沸き立っていた。彼は、話すべきことがある。彼はだれにもえいこひいきもせず、へつらいもせず、直截に、神から授かった言葉を語ろうとする。
頑なな心の前に、物事を断念してしまいやすい私たちがいる。しかし、それは、自分を罪無しとする、ヨブ以上に、私たちの側に神の解決に対する不信仰さがあることを明らかにしている。神がおられると信じているならば、そんなに簡単に物事を諦めてはいけない。真に神の業を期待するなら、神が知恵と言葉を与えてくださり、私たちの口も歩みも導いてくださる、ことをどこまでも信じなくてはいけない。私たちの知恵には限界がある。しかし、神がその時々に与えてくださる上からの新しい知恵には、無限の可能性がある。神はその知恵を惜しみなく与えてくださると謙虚になり、信頼して、いつでも難題に立ち向かう心が必要である。今日も主に知恵を願い求めよう。