112篇 主を恐れる者の歩み
おはようございます。先の詩篇111篇では、主の御業に注目し、主を恐れることが教えられましたが、この詩篇では、主を恐れる人がどのような生き方をするのかを語っています。同じアルファベット詩篇で、連続している部分があるのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
111篇と同じ、ヘブル語のいろは歌である。111篇と作者は同じなのかもしれない。そして111篇では、主の御業を思い起こし、主に感謝し、主を恐れるべきことが語られたが、本篇では、主を感謝し、恐れる人の歩みがどのようなものであるかを語る。
2.主を恐れる
1節「ハレルヤ、幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」。最初の1篇を思い浮かべさせることばである。主を恐れ、主のことばを喜びとする。これが主に応答する生き方の基本である。本当に恐れるべきものがわかれば、余計な恐れはなくなってしまうものだ。イエスも、言われたではないか。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)天地の支配者であり、私たちのいのちをも、環境をも、あらゆるものを一手に握っておられる神以外に恐れるべきものはない。
3.主を恐れる人の生活
神を恐れ、神の御言葉を喜びとして生きるなら、地上での私たちの生活も家庭も整えられていく。それは子孫の繁栄、一族の継続として形にされる(2節)。「繁栄と富とはその家にあり」とあるように、欠乏を恐れることもない。また、その正しさは、誰の目にも明らかである(3節)。たとえ、彼が闇の力にに巻き込まれることがあっても、神が、彼の正しさを証明してくれる。神が彼に光を照らすからである(4節)。「主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる」
だから5節、カエルの子はカエルと言うべきか、彼もまた「情け深く」あるのだ。そして、神の足跡に従い、神の子として生きる、その人は決して「揺るがされない」。ヘブル語の原語はムーツ。象徴的に大惨事を表現するのに用いられるか、否定詞をつけて、決して揺るがされない、確実な安心、信頼感という逆の意味で使われる。箴言には、「正しい人は永遠に揺るがされることがない。しかし悪しき者は地に住むことができない」(10:30)とあるが、これも典型的なムーツの用法である。
大切なことは、父に倣って生きる神の子は、どんな物事に対してもでんと構えていられる。この世の悪い知らせも恐れることはない(7節)。物事が変転したとしても、必ず父が良い結果にしてくださる、と信頼できるからだ。そのため、敵をも恐れない(8節)。「ものともしない」は、新改訳2017では「平然と見る」となった。要するに、彼の心にやましいことはないので、彼は、敵のまなざしをじっと見返す余裕すらある、ということだろう。よく理解できるところである。
彼の心は、神によって支えられているので、敵のプレッシャーを跳ね返すだけではない。彼はそれ以上のことをする。彼は「貧しい人々に惜しみなく分け与える」のである(9節)。パウロはこのことばを自身の手紙の中に引用し、神に信頼し、神に愛されているキリスト者がそうであることをわからせようとしている(2コリント9:9)。
心配して、必要な助けを豊かに備えられる神がいる。そのように信頼する人は、結局逆に、悪しき者にいらだちを与えることになる。(10節)。泰然自若と神に信頼し、神の足跡に従う正しい人に対して、ぐらぐらし、いらだち、歯ぎしりするのは、悪しき者である。真に恐れるべき方を恐れ、平安の中に、主の結びつきを楽しみとしながら、歩ませていただこう。