133篇 神の祝福を求める
おはようございます。主にある和合、一致、キリストの教会の交わりの素晴らしさは、よい人々の集まりによる、というものではなくて、神の命令によるという点が大事なことです。神の業なくして、罪人の中に真の解放と愛に満ちた交わりもないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
詩篇の第五巻、都上りの歌は、各編に変化があって面白い。この詩は、エルサレムに到着し、皆が祭りに集った時の、楽しさ、親しさ、ここちよさを歌ったものなのだろう。最も、表題には「ダビデによる」とあるが、アラム語、七十人訳には欠けている。ダビデが12部族を統合した喜びを礼拝の中で詠ったということも考えられるのだが、この詩もまた他の都上りの歌同様に、捕囚期後にダビデ風に書かれた、と考えられる。イスラエルの民は、期待感をもってエルサレムに集まった。その旅の道すがら、彼らは、神の力によって助け出され、また神の力によって乗り越えた自分達の歴史を思い出している(詩篇132)。また自分たちが乗り越えた苦難や悲しみの深さを思い起こしている(詩篇129、130、131)。そして、エルサレムに無事到着した今、同じ道を歩んできた巡礼者と共に、神への感謝に浸っている。「見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、共に生きることは」(133:1)と。
2.幸せと楽しさ
そのしあわせと楽しさは、まず聖別の油注ぎに例えられている。神に仕える祭司は、聖別のための油注ぎを受けた(レビ記8:12)。2節はそのしるしの豊かさを詠っている。つまり、そのしあわせと楽しさは、神に仕える者たちの特別な経験なのだ。単純に兄弟が和合する一体感の素晴らしさを語っているわけではない。イエスは、兄弟姉妹が互いに愛し合うことが、キリストの教会の印であると語った(1ヨハネ4:12)。主にある愛の麗しさは、まだ主を知らぬ人々に対する証としての特別な目的を持っている。
またそのしあわせと楽しさは、ヘルモンの露に例えられている。雨の少ないパレスチナでは、夏、夜に冷える際には必ず露が降りるという。海岸からしめった空気が風によって送り込まれ、それが冷えるからである。そして、ヘルモンの露は、葡萄の実りなど、農作物の成長や家畜の維持には欠かせないものであった(ハガイ1:10,11)。モーセは12部族に対する祝福の祈りの中で、語っている。「彼の地は主に祝福されたもの。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物」(申命記33:13)。露は祝福そのものを意味する。
3.神の命令
「共に住む」は、一時的な滞在を意味する。しかし、そこには定住を願い、促す意味も込められていたのではあるまいか。新しいエルサレムを再建しようとする時に、やはり、多くの人の力を必要としたことは言うまでもない。一時期ここに集い、またそれぞれに散っていくのではなくして、ここに留まり、ここで築き上げていく思いを温めていくのである。しかし、一時的な滞在であればまだしも、それが定住となった時に、果たして、なんというしあわせ、なんという楽しさと言い続けることができるものであろうか。旧約の族長たちの歴史は、互いに価値も違い、背景の違う者どうしが、一致して仲睦まじく生活することがいかに困難であるかを物語っている。アブラハムとロトの例、イサクの家族の例、ヤコブの家族の例、どれをとっても、家族が仲睦まじく、一つに和合して暮らし続けたという話はない。
だから、なんというしあわせと楽しさが現実となるのは、神の業によるのだ。「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられた」ということが、私たちの教会に起こりうるように、私たちの家族に起こりうるように、と切に祈らせていただこう。