63篇 神がしっかり握られる
<要約>
おはようございます。ダビデの詩を読む時に、ダビデがいかに神を身近に、また神とともに、よき時を過ごしていたかを思わされるところでしょう。ディボーションにおいて大切なのは、教えられることよりも、(神を)感じること、神と言葉を交わすことにあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
ユダの荒野に潜伏していた時代である。となれば、サウルに命を狙われていた頃にのことになるのだろう。ダビデが逃げ込んだユダの荒野は、渇いた風が、殺伐とし、枯れ果てた大地を通り抜ける、そんなイメージである。それは、ダビデが転落した状況、そして行く末を暗示するかのような状況であった。
2節、ヘブル語の原文をほぼ語順通りに訳せば、「神よ、あなたは私の神、私はあなたを求めます、あなたに渇き、私のたましいはあなたを恋い慕います。水のない、衰え、渇いた地で」となる。ダビデにとって、それは一日一日がただ無為に過ぎて行く、もはや自分が死んでも誰も気に留めない、何も変わらない、そんな望みなき時であった。しかし、そこでダビデは神を見上げている。どのような状況に置かれようが、その場で、落ち着いて神を見上げ、神に期待を寄せる。たとえ自分の人生に何かが起こり、大きな変化が起こったとしても、それは神が私たちに突然手のひらを返されたことを意味するわけではない。神の愛は変わることはない。その神を覚える時に、荒野もまたエルサレム同様聖所となりうるのだ。大切なのは、何の望みをも持ち得ない状況の中で、エルサレムの聖所にあるのと同じ神の恵みを味わいうる現実があることだ(2節)。「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(3節)。
2.ダビデの信仰
5節「脂肪と髄をふるまわれたかのように」とある。新共同訳では、「乳」と訳す。レビ記では脂肪は食べてはならないとされている(3:17)。脂肪を食べる者はその民から断ち切られる(7:25)とされる。そこで脂肪と訳すべき「ヘレブ」を、乳と訳される「ハレブ」に読み換えたのではあるまいか。しかし、脂肪は、最も富んだ最善のものの象徴であり、神に献げられるべきものであった(レビ3:16)。つまり神の専有を神ご自身がふるまわれる、ことを語っている。英訳聖書(NIV)では、「豊かな食事」と訳す。たとえ、殺伐とした環境に人が置かれることがあっても、人は神にあって満ち足りることがあるのだ。
そこでダビデは、さらに告白する8節、「わたしのたましいは、あなたにすがり」英訳聖書(AV)では「私のたましいはあなたのすぐ後についていく」と訳す。実に、必死に神の後追いをするイメージがある。しかし人間の努力が期待されているわけではない。神がそのように「追いかけてすがる」我が子の右の手をしっかりと握って、支えてくださる、というのである。そして、いのちを求める者が、追いつくことはない。神の守りの確かさと神の恵みの素晴らしさに期待を寄せる。それが信仰者の歩みである。
なお、この詩篇は、62篇と対で理解することができる。詩篇62篇では神に焦点が合わせられていて、敵は情景の端に現れるのみであった。しかしこの詩篇では構成が逆になっている。ただし結論は同じであり、いずれも神の守りの確かさと恵みの素晴らしさを歌いあげているのである。