70篇 神の時にお任せする
<要約>
おはようございます。今日の詩篇は、40篇と関連しているもので、合わせて読んでおきたいところです。大切なのは、物理的に私の解放が早められるだけではなく、精神的に、内面的にしっかり解放されていくことでしょう。私たちの痛んだ心が癒され、整えられて、困難に前向きに向かっていけるようになる。これこそ、信仰者の祝福だと言えます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
どこかで読んだくだりだと、思い起こしてみると、詩篇40篇の後半(13-17節)とほとんど同じである。しかも、よく比べてみると、40篇前半の、泥沼と暗黒から救いを求める主題は、69篇に重なっている。つまり、40篇は、69篇と70篇をつなげてつくっている、とも考えることもできる。すでに教えられたように、69篇は、神に忠実であるがゆえに、味わう不当な苦しみの中で詠われたものである。望み得ない状況の中で、敵に追い詰められた状況の中で、神に助けを求め、敵のために祈るものであった。
その続きとなりうる70篇は、ひたすら神の時が早められることを祈っている。ダビデは言う。「神よ。私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けに来てください」(1節)「神よ。私のところに急いでください」(5節)。「主よ。遅れないでください」(5節)。と繰り返される。それだけ状況が逼迫しているのだろう。なぜか神は時を遅らせる、と思わされる時がある。しかし、神に遅すぎることはない。
王室の役人の息子の癒しの話がある(ヨハネ4:46-54)。王室の役人の息子が病気で死にかかっていた。王室の役人は、イエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」(49節)。この王室の役人のように、人はいつでも自分の時を気にしている。自分の都合があり、自分の予定通りに物事が解決することを願っている。しかし、神には神の時がある。私たちはその時を知らない。だから、「死なないうちに」と思ってしまう。けれども、神にとって、死んだら終わりということはないし、もう手遅れということもない。神は日時計におりた影を十度後に戻すことのできるお方である(2列王記20:11)。ならば、手遅れと思った月日を取り戻すことも、あるいは、失われたと思う日々を埋め合わせることも可能なのである。神が私たちを拒否されることはなく、敵対されることもない。むしろ、「おりにかなった助けを」与えようとよい時を選んでおられる。
かつて、ヨシュアとカレブは、自分たちの志が遂げられるまで40年の時を待たなくてはならなかった。しかし、カレブにとってそれは遅すぎるということはなく、「モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。」(ヨシュア14:11)と告白させるものであった。そして神が与えてくださった時に、ヨシュアは神の期待に応える働きをし、それは、イスラエル全体の祝福へとつながったのである。
2.神に支えられる
大切なのは、そのような信仰的な見通しの下、打ち破れた心を神が整えてくださることを、急いでください、ということだろう。しばしば、人は様々な攻撃や、嘲りにさらされることで、本当に拠り所を失う思いになることがあるものだ。結局私たちの精神が侵されるのである。そして物事は変わっていかない。そのような時に、私たちの打ち破れた心を修復し、情けない思いを立て直すのは、神の恵みそのものである。神が、私たちの心を、平安で満たし、また苦難に対する前向きな心も整えてくださるのである。まさに、イエスが、十字架におかかりになる前に、置いてきぼりにされそうになり、途方に暮れた弟子たちに対して「私の平安を与えます」(ヨハネ14:27)と語った、そのことばが、すぐにも必要なのである。そうすれば、苦難の中にありながらも、穏やかに物事を見、「おりにかなった助け」を待ち続ける忍耐も沸き起こるだろう。
いのちを求める者、わざわいを喜ぶ者、あざ笑う者どもが、退けられる時、私たちは本当に、救いの喜びを味わうだろう。物理的にそのようなことが早く起こって欲しいと願う心は自然なことであるが、なかなかそのようにはなっていかない状況の中で、主が私たちのたましいを癒し、満たし、そのような者たちを静かに眺めることができるように、と願うこともまた大切なことなのである。「主よ、遅れないでください」主を喜ぶことができるように、主の偉大な力を信頼できるように(4,5節)、と祈り、その事実に立って、神の御手に自分の時を委ねていく。そして淡々となすべきことをなさせていただく、そこに信仰の力強さもあるのだ。