詩篇93篇

93篇 主は王である
 おはようございます。主の王権を讃える詩篇です。詩人の告白(1-2節)、被造物の証(3-4節)、そして詩人の告白(5節)というサンドイッチ構造と、階段状三行詩(3節)という修辞法を取り入れた技巧的な詩です。詩人と共に、恐れつつ主の主権を告白したいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.文脈と背景
この詩篇は、後に続く95-100篇と共に、頌栄の詩篇と呼ばれる。ギリシャ語の七十人訳聖書では、「地に人が住んだ安息日前日のためのダビデの賛歌」と表題がつけられているが、ダビデの作とは考えられていない。また、ユダヤ教では、「安息日のための」と表題された92篇に並んで「安息日前日のための」詩篇として読まれた。七十人訳が「地に人が住んだ」と解釈したのは、1節の「世界は堅く据えられ」を根拠にする。これを天地創造と理解し、安息日の前日、つまり創造の第六日目に人間が創造されて、地に人が住むようになり、創造が完成し、神の支配が開始されたことを言う。聖日に備えるための、安息日備え日という考え方からすると意義ある詩篇ではあるが、こうした解釈は、今日支持されていないようだ。
また、この詩の背景として、バビロン捕囚からの帰還があったとされている。つまり、イスラエルがバビロンに捕虜された時代は、神のダビデに対する契約が破棄されたかのように思われた時代であった。しかし、神は約束どおりに、イスラエルを祖国に連れ戻し、エルサレムを再建させ、もう一度神殿での礼拝を復活させてくださった。それはイスラエルの神がまことに天地万物を支配する神であることを証明するものであり、主が王の王であると認められる出来事である。その主の支配の完成を願う詩篇である、というわけである。しかし、実際、文脈上、歴史的な背景を読み取ることは難しい。
2.主は王である
1-2節は、主の絶対的な支配とその永遠性を告白する。3-4節は、川や海もその支配を認める告白である。3節は、直訳すると「あげました。川は。主よ。あげました。川は。声を。あげています。川は。とどろきを」で、修辞的には、川の流れをダイナミックに表現する階段状三行詩となっている。
これは、先の歴史的な背景を読み取る立場からは、アッシリヤ、バビロンなど大河を持つ国々に捕らえられていき、完全に滅ぼされそうになった、イスラエル捕囚について象徴的に語っていると理解される。つまりイザヤが語るように、大水にたとえられるバビロンによって、イスラエルが破壊し尽くされそうになったとしても、私たちの神の力はそれにまさるものであるという(イザヤ40:9-10、43:15など)。私たちの神は、私たちを大水の力から守ってくださる。主は力強い、というわけだ。しかし、この詩は、単純に、詩人の告白に続き、被造物の告白を描いたと理解すべきなのだろう。川の流れが、神の力を証しし、天地創造によってできた海と川に代表される自然界が主の王権を告白し、叫んでいる、と。
そこで、5節、詩人は、再び自分の告白をささげる。「あなたの証しは、まことに確かです」の「証」はヘブル語でエドティ、詩篇の他の箇所では、「さとし」と訳されている(15:10、78:56、99:7など)つまり、それは、主の契約のことば、そのものを意味している。詩人は、主の具体的な目に見える被造物から目で読める契約のことばに目を向け、それが、川の水の流れの響き、大水のとどろき同様に、いやそれ以上に優って、確かであること、自分の告白のアーメンであることを語るのだ。だから、直訳すれば「あなたの家に、聖なることが美しい」と締めくくられる。「ふさわしい」と訳されたことばは、イザヤ書52:7の「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか」の「美しい」と同じことばである。神の主権とその支配を仰ぐことは、結局、神の臨在を覚え、畏怖し、聖であることを意識し、務めることが、相応しいし、美しくもあるのだ。

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