雅歌6章

6章 一線を越える愛
 おはようございます。愛する者を神のように慕う、これこそ愛の病というべきです。しかし、既に結論を知っているキリスト者からすれば、この歌劇が詠いあげる愛の病は、実に、神の人を慕う愛の病と言うべきであり、感動的です。神に愛さる人のいのちは重いのです。
今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.再び燃え上がる
シュラムの女は、夜の町に出かけ、愛する者を捜した。そんな女の一途さに、エルサレムの女たちが「一緒に捜しましょう」(1節)と申し出ている。一体どこへ行ったのか。女が答えた「私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました(2節)」なんだ知っているのか、肩透かしを食うような答えである。ならばそんなに騒ぐことでもなかったのに、となるのだが、愛というものはそういうものなのだ。目と鼻の先にいても、心が通じ合えぬことが、ロスト感を強める。「私は、あなたのものなのに」(2節)、というわけだ。
いささかへこんだ思いになっている女に夫が応える(4節)。それは、4:1-3の繰り返しのようで、女の美しさを讃えている。ティルツァは、ヤラベアム1世からオムリまで約50年北王国イスラエルの首都とされた。水量が豊富で果樹園や庭園の多い、美しい町であった。エルサレムも力と美しさの象徴である。ティルツアやエルサレムが並べて取り上げられているのは、この雅歌が、分裂王国時代前に執筆されたことを示唆している。4節後半は、わかりにくい。恐らく、女の美しさは、男を引き付けると同時に、侵し難い聖域のように思われる様を言っているのだろう。5節からは、まさに4章の繰り返しであるが、言わんとすることは、8,9節に集約される。「王妃は60人、そばめは80人」つまり、後宮は王の地位を象徴する、最高に美しい女性の集まりであったが、もはや、何人もこの女の右に出るものはない。私の妻は、すべての美女を凌ぐただ一人の女だ、というわけである。
2.合唱隊の合意
歌劇として読むならば、男は、この叙述歌をエルサレムの女たち(合唱隊)に向かって歌っている。そして、エルサレムの女たちがソロモンの言葉をなぞりながら(4節)、応答する(10節)。すると今度はスポットライトが、女に向けられる。女が歌い始める。「私は民の高貴な人の車に乗せられていました」原語は、アミ・ナディブの車である。これは、おそらく、当時の古い言い回しで、もはやこの世のものではない車を意味するものだろう。つまりかつてエリヤがエリシャの眼前で、火の馬をつないだ火の車で天にあげられたように、手の届かないところに引き上げられた様を言う。男の元に下った女は、もはや神同様に扱われているのだ。あなたは世界で最も美しいを通り越して、もはや女神だ、というわけだろう。神と人は、区別されるべきものであり、人が神になることはない。だが、愛の病にいる者たちは、しばしその一線を踏み越えてしまう。歌劇なればの筋書きだ。男の愛に陶酔する女に合唱隊が叫ぶ。「帰りなさい×4、シュラムの女よ」初めてシュラムの女と呼ばれる。この女の正体は何者か。原語はシュラミット、ソロモンの女性形を思わせる固有名詞で「申し分のない人」という意味なのだろう。まさに「いいね」をクリックしたいとこである(つづく)。

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