はじめに

パスターまことの聖書通読一日一生第四サイクルへようこそ。ご一緒に「満ち足りる心を伴う敬虔な歩み」を導く聖書を通読してまいりましょう。

1.まずは初めよう

聖書通読が続かないと思う人は多いことでしょう。私もその一人でした。かつて、何度試みて、続かなかったことか。しかし、続かなくても諦めないことです。諦めずにチャレンジし続ければモノになるものです。

大切なことは、聖書通読のやり方の本を読んでも、聖書通読は身に着きません。それは筋トレの方法の本を読みながら、筋トレをせずに、筋力を付けようとするようなものです。まずは、やってみるのです。キリスト教書店には、聖書通読を助ける様々な本が売られています。聖書通読の手引きとして月刊誌として売られているものの老舗的存在は「みことばの光」だと思いますが、その他にも、「アッパー・ルーム」「ディリー・ブレッド」「マナ」「Clay」など最近はたくさんのものが出版されています。私が信仰を持った頃は、「みことばの光」しかない時代で、「みことばの光」も読みにくかった記憶があります。そこで、当時は、単行本の手引きをよく使いました。榎本保郎の「一日一章(旧約、新約)」、内村鑑三の「一日一生」、カウマン氏の「山頂を目指して」、「荒野の泉」そして、F.B.マイア―の「今日の力」でしょうか。それが続いたり、続かなかったり、そんな時をよく繰り返していました。

2.途中で止まっても気にせずに再開し、続けよう

しかし、人生トータルで考えると、断続的に継続ということもあるのではないか、一度中断して、そのお休みの期間が長くなったとしても続かなかった、と思わずに、そのまま続ければよい、と考えるようになった時があります。そして、高校時代の教師が「3か月続ければ習慣になる」と語っていたことを思い出し、聖書通読に本格的に取り組み始めたのが約20年も前、それから一日も休まず今日まで教会の信徒さんに、そのみ言葉の恵みをメールで配信し、分かち合ってきました。聖書通読ブログという形でインターネット上に公開するようになってからは、もう、10年半になり、今や4サイクル目です。

続かない、続けられないと思っていたのが、いつの間にか、これをしなければ一日が始まらない、落ち着かない、日常の一部というぐらいになってしまうのですから、本当に不思議なものです。神様の大きなあわれみと助けあればこそでしょう。そこからまず言えることは、聖書通読を続けるコツは、たとえしばらく休んでしまった、と思うことがあっても、あまり気にせずに、そのまま継続していくことです。そして、聖書を読む楽しみを見つけるように努めることです。

3.神とよき時を過ごす(神との語り合いの時を楽しもう)

聖書通読には、いくつかの方法があるようです。毎日聖書を読む聖書同盟の方法、というものがあります。「みことばの光」的通読方法の勧めです。それによれば、①神のもとに来る。②読む、③神と話し合う(対話する)、④応答するという四つの段階を踏んで、神との時間を意義あるものとすることを目指すわけです。

しかし、考えてみれば、これは特別なことではありません。神の言葉を読むというのに、何かかしこまって読むというのではなく、自然に、神の人格と存在を認めて、神のことばに耳を傾けていくだけのことです。

そこで私がこの20年聖書通読を続けて来て、ようやくわかって来たことは、「神とよき時を過ごす」という言い方に全て集約されることです。つまり、神と語り合い、その時を楽しみ、喜ぶことが継続の秘訣であることです。

けれども多くの聖書通読のススメは、そのようには教えていません。厳密に釈義をして、聖書を深く理解する、ことはもちろんのことでしょうが、その次のステップとして、加藤常昭先生流に言えば「説教黙想」という言い方で、カトリック長崎司教区の勧め方で言えば聖句の黙想でしょうか、あるいはフランシスコ会の言い方でいえば「観想」となるのか、要するに第二ステップは、深く聖書の言葉を思い巡らし、教えられる、気づきを与えられるという知的営みが中心となるのです。12世紀の修道院に発した、レクティオ・ディヴィナという祈り心をもって聖書を読む方法は、よく取り上げられるのですが、それが、どうも日本人の場合、禅の影響のためなのか、ともすると、山中に隠遁して聖書に向かい合うことがよいのだ、という方向へ傾いていくことが多いように思います。結果霊想すればするほど、世間ずれしていくし、それができる本人は満足していても、それだけのことであったりします。出来て素晴らしいですね、ということで、できない人は、聖書という難しい書物を理解しようと努め、宗教生活はなかなか自分にはなじまないなあ、と何か変な所で悩んでいるように思うのです。私も長い所、そんなところを彷徨っていましたが、エルサレムに三度目の旅をして、ユダヤ教徒との交流を得て、教えられたことがありました。

4.みことばは我が喜び!(シムハット・トーラー)

ユダヤ教には、シムハット・トーラーという祭りがあります。それは、1年間トーラーをシナゴグで読んでいくサイクルの終わりと始まりを祝う祭りです。何と聖書通読の始めと終わりにお祭りがある!素晴らしいではないですか。その時には、申命記33章1節から申命記の最後までと、創世記1章から(ベレシート)の二個所が読まれます。そして、トーラーは本ではなく巻物状になっているので、申命記の最後の部分が読まれた後に2、3人がかりで巻物をゴロゴロと壇上で、創1章の最初まで巻き直し、男性の代表者がシナゴグにあるトーラーの巻物を担いでシナゴグをぐるぐると周回するのです。それは、皆で歌い讃美しながら行われます。もちろん、超正統派、正統派、それぞれやり方は違いますが、それは、喜びと楽しみの時で、盛大に祝うのです。
超正統派のユダヤ人の町メアシャリームのお店で、その様子を彫金で額にしたものがあったので、買ってきました。通読マニアには欠かせない一品!思わず衝動買いです。トーラーを持ちながら、皆で踊って、楽しんでいる。で、その中のヘブル語がいい。どうやら、「絶えず喜びの内にあることは、大きな(重要な)戒めである」と書かれているようです。図と文字は掛け合わせですね。図は、シムハット・トーラー、つまりトーラーの喜び、律法の書の通読の完成と新しい開始の喜びを描いており、文字の方は、その神のみことばを味わう喜びの中に日々歩みなさい、と言っている。そこで、思ったわけです。やはり聖書を読むことは、情緒的な部分で、喜びとなり、本当に「神とよき時を過ごす」ことにならない限り、聖書通読は続かないし、神と共に生きるという姿勢も育たない、と。実際クリスチャンの生活の本質は、喜びです。クリスチャンらしい生き方を心がける修業的な生活ではなく、神が書かれたものを小難しく理解しようとする営みでもない。むしろ、私のために十字架で苦しんでくださった、死んでくださった、愛してくださった、イエス様ごめんなさい、ありがとう、というところから出発して、キリストにあって神の子とされている祝福の日々をみ言葉を通して確認し、味わい、感謝し、喜ぶ日々を生きることが中心です。そこに、クリスチャンらしい生活態度も、振る舞いも自然にはぐくまれるのです。何よりも、キリストのみ言葉に表されたいのちに触れることが、ディボーションの本質です。

ですから、もし聖書通読を初めようとする人がいるならば、私は、レクティオ・ディヴィナを、聖書を深く読むためのプロセスとして採用するとしても、その形式を真似てよしとするのではなく、その本質的な考え方に沿っていくことをお勧めしたいと思います。つまり何よりも聖書を読み、黙想する時が、生ける神とともに膝を交えて語り喜ぶ、そして楽しみ、良い時を過ごすことを大事にするように心がけることです。「静止の時」という本の著者、アンダーソンは、「静思の時というのは、神が私たちと友として交わることを望んでおられる奇蹟である」と言っています。実に神様は、私たちを友とし、私たちと友達のように親しく語ってくださる、奇跡的な素晴らしい時だ、というのです。まさにその通りでしょう。本当に神様は冗談もおっしゃられるのですから楽しい時ですよ、それは。そして、朝起きて、さあ、聖書を読みに何時もの所へ行こうと思って出かけたら、なんとそこに神様が嬉しそうに待っておられる、と感じるようになったらこれは止められないことでしょう。あるいは、聖書を読みながら、クスッと笑ってしまう経験をしてしまったら、これは止められないのですね。

5.第四サイクルのスタート

では、第四サイクルに入りますが、色々と聖書通読の助けを求めて、ここにたどり着いた方々に申し上げたいことがあります。これは、あなたが聖書通読を進めるきっかけにしかなりません。これを踏み台にして、自分なりの神とのよき時の過ごし方を掴んでみてください。そして、私のブログから巣立って、自分なりに神と本当によき時を過ごし、神と共に生きる喜びを見出すことが出来れば、それは、私にとっても喜びです。

ただ、私が、聖書通読を進めるにあたり、心がけて来た読み方を、最後に付しておきましょう。やはり聖書は全体を繰り返し読むこと、全体の光の中で個々の言葉や物語を理解していくことが基本です。実際、聖書の信仰に生きるというのは、聖書全体から教えられ、教えられたことに従って生きることに他なりません。そのためには、丹念に、丁寧に聖書全体を読むことです。その際に、私がお茶の水聖書学院の学生に進めていることは、私のブログでもかまいませんが、標準的な聖書注解を手に、それに基づいて、聖書を読み進めていくことです。福音派の人にとって標準的なのは、いのちのことば社の「新実用聖書注解」でしょう。そして一サイクルが終わったら、今度は別の注解書にチャレンジしてみる。たとえば「新聖書注解」シリーズ、あるいは、ティンデル聖書注解シリーズです。いずれ注解書を超えた読み方が出てくるはずです。カメのようにノロノロした進み方でも構わないのです。人生長いのですから、ただ1日一章は読み進みたいものです。

なおなぜ、注解書なのか、と言えば、私たちが聖書を読むにあたり、明らかにすべきことは、自分にとっての意味を先に考えるよりも、この聖書を最初に手にした人たち、たとえばエレミヤ書であれば、エレミヤの肉声を聞いた人たちは、これをどう読んだか、を理解する必要があるからなのです。その昔、聖書が書かれた時代の人たちは、これをどう読んだか。そこを踏まえて、自分にとってどんな意味があるのか、と二段構えで理解することなのです。

注解書は、そういう意味では、F.B.マイア―の「今日の力」榎本保郎の「一日一章」にはない詳しい情報を提供してくれます。聖地旅行は、単なる観光だと考えている人もいるようですが、考古学的な発掘調査が進んだ今日では、博物館や発掘現場を訪れることで、聖書の書かれた背景をよく知ることができ、聖書の世界をリアルに感じさせ、当時の信仰者の状況について深い洞察が得られるのです。そういう意味で、聖書通読を続けようと思ったら、自分の心の慰めを求めるような読み方では決して続きません。むしろ、聖書の世界にどっぷり浸る、いや、「そんなことがあったのですか」、「そうだったのですね」、「おっしゃるとおりです」と神様の声が心に一つ一つ響いて、神様と心通わす、よき時を過ごすことが大切なのです。

では、皆さんとご一緒に第四サイクルの旅を続けてまいりましょう。