ヨシュア記23章

ヨシュア記23章 ヨシュアの告別説教
<要約>
おはようございます。ヨシュアのお別れ説教というべきものです。彼は、イスラエルの民が、主の約束の通りに、彼らよりも大きくて強い国々を追い払ったことを思い起こさせます。そして、さらにこの占領を完成させるようにと語るのです。確かに教会形成も同じでしょう。私たちの力で話し得ないことを主が導いてくださっている。さらにこれを完成させるのです。そのために必要なのは、これまでもそうであったように、ただ主にすがることです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.大きくて強い国々を追い払った
 ヨシュアは年を重ねて老人となっていた。ヨシュアの告別説教である。これまでの歩みを回想しながら、イスラエルの民が進むべき道を示している。ヨシュアは、まずイスラエルの民を安住の地に導かれたのは神であること、神がイスラエルの民のために戦い、カナンの地に入ることを許された、と語っている。大切なのは、今あるのは神の約束の実現である、ことだ。申命記にはすでに次のように約束されている。「もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行い、あなたがたの神、【主】を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、【主】はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。(申命記11:22,23)」確かに神は、約束通りに、イスラエルの民よりも大きくて強い国々を追い払い、イスラエルの民に、その地を継がせたのである。神は真実である。
2.働きを完成させる 
この神の真実さを受け止めながら、ヨシュアは、さらにチャレンジを与える。「あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない」(5節)残された戦いがまだある、というわけだ。それは神が与えられたものを、完全に自分たちのものとする努力である。
 それは、私たちの救いにおいても言えることであり、私たちは、バプテスマ式において「救われた」などと言うものの、実際には、救いの第一歩を踏み出したに過ぎず、その救いを完成しなくてはいけない。私たちが罪の深みの中から救い出されたことに間違いはないが、罪の根はまだまだ私たちを深く絡めとっており、私たちを取り囲む誘惑や試練も、変わらないままである。「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(11節)とあるように、十分に気をつけて自分の救いを達成するのである。また働きも同様だろう。働きも一つ一つが始まったばかりであって、決して、完成されたものを私たちは与えられるわけではない。むしろ完成するべき働きが与えられるのである。
3.主にすがる
さて、自分の救いや働きの完成のためには、何を心がけたらよいのか。8節がその秘訣を語っている。「ただ、今日までしてきたように、あなた方の神、主にすがらなければならない」難しく考えることはない。これまでしてきたとおり、主にすがることである。主に信頼し、主の業がなされるように、意を注ぐことである。そのようにして「大きくて強い国々」(9節)を追い払うことができる。また「だれもたちはだかることのできる者はいない」「ひとりだけで千人を負うことができる」(10節)ということになる。
逆にそうではなく、神を忘れ、神から離れるならば、それが「わなとなり、落とし穴となり、わき腹にむちとなり、目にとげとなり、主が与えられたよい地で滅びることになる」(13節)と警告される。私たちにとって益と思われるものがそうでないものに変化することがある。それはまさにサタンの罠であると言わねばならないだろう。
詐欺師は詐欺師と見破られないからこそ詐欺師であると言われるように、サタンも、それとはわからない。エバに現れた蛇も、ヘブル語では光るもの。つまり魅力的なものとして現れたのであり、まんまと騙されてしまったわけである。だからこれはよいものだと思うところにこそ、十分に気をつける心を持たねばならない。
神の約束は真実である。ヨシュアも、イスラエルの民もそれは、身を持って知ったことであった。それをしっかり心に留めて歩む者とそうでない者がいる。しっかり主のことばを心に留めて、主にすがり、主の勝利に歩む者であろう。

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