詩篇74篇

74篇 神に期待を置く積極的な待ち
 おはようございます。人間は愚かな者であり、結局は神のあわれみに寄り縋るほか、何の解決策も持ちえない者です。アサフの賛歌集は、ダビデの賛歌集と比べて、より冷めた目で、信仰の原則を見つめているような気がします。神の前に正直な姿になって、神を信頼していく信仰を深めたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩篇が語る、国家的惨事では、聖所が、「手斧と槌」(6節)で破壊され、火で焼き払われてしまっ(8節)」ている。「もう私たちのしるしは見られません」(9節)と、それと見てエルサレムとはわからない状況が起こっている。神の選びの民、イスラエルは、全く神に見捨てられ、民族は根絶やしにされ、それは永久に取り戻すことのできない大打撃であった。「もはや預言者もいません」(9節)、窮地にあっては必ず神の言葉を語り告げ、光を与え、民を支えた預言者も消え失せてしまった、と言う。それはいつの時代の出来事を語っているのであろうか。
1マカベア書4:46に預言者がいなかった同様の状況が書かれていることから、これを中間時代のアンティオコス・エピファネス(BC168-5)の迫害下の作とする説もある。しかし通常は、79篇、137篇や哀歌(2:9)に通じる国家的惨状、BC586年のエルサレム破壊とバビロン捕囚を背景とする、と考えられている。となれば、アサフはダビデの時代の人であるから、この詩を詠んだアサフは、捕囚期にアサフの役職を引き継いだアサフの子孫を指すと言える。
2.苦悩の中での願い
さて、興味深いのは惨状を語る後の展開である。というのは、普通の展開であれば、なぜ神は、エジプトから救い出した、ご自分の最愛の民族をこのように扱われるのか?となり、神との契約を破ったこと、神の民としてふさわしくない歩みをしたことへの悔い改めの祈りが来るはずであるが、そのようにはならない。むしろ、「神よ、いつまで、はむかう者はそしるのですか」(10節)「なぜ、あなたは御手を、右の御手を引いておられるのですか」(11節)と神との関係はしっかり維持されていることを前提に、敵対する者への性急な報復を願っているのである。そして「神は、昔から私の王、この地において、救いのみわざを行う方」と語り、かつての出エジプトの御業を思い起こしながら、神の破壊力の強さ(13節)、そして神のこの世に対する支配(16節)を讃えている。ヘブル語原語で読むと、12-17節には、「あなたは」という人称代名詞が繰り返される。通常ヘブル語は、動詞の活用形に主語が含まれているので、人称代名詞を必要としないから、それは強調的な意図として加えられていると理解できる。どうか、あなたのその力を下してくださいと熱が入っているのである。自分たちの罪に対する反省はどこにもなく、ただひたすら主の回復を求めている。果たして神はこんな祈りに耳を傾けられるのだろうか?たとえ耳にしたとしても、心動かされるのだろうか?
3.厚かましくも祈る。
かし、身勝手であったとしても、苦しみの中にある者にとっては、神のあわれみを願う他はない。どんなに厚かましいと思われようが、そんな資格はないのだ、と言われようが、今自分が陥っている現実を変える術は、ただ神のあわれみのみである。だから詩人は言う。「主よ。お救いください」(19節)神が、人間とは異なる性質の愛を持ったお方であるとするなら、いつまでもだらだらその怒りを引きずることはないだろう。詩人は、神の主権と力をほめたたえたが、実のところ、神の愛に対する絶対的な信頼感を抱いている。神の愛は、人間のように気まぐれでも、損得に基づくものでもない。人間とは全く違うのだ。神は、罰を受けた罪人の痛みもわかっておられる。神の憐みは深い。
そこで詩人は、神の契約に訴えて祈っている。「どうか、契約に目を留めてください」(20節)。繰り返される命令形の動詞がある。ゼホール、2節、18節、22節、日本語では多少訳が異なるが、「心に留めよ」が繰り返される。そして、20節は、ハベット「(契約を)見よ」23節は、ティシュカーで「忘れるな」である。
実に身勝手ではあるが、神が持ち出し、一方的に結ばれた契約に詩人は寄り縋る。神の私たちに対する一方的な愛と責任に訴える他ない状況というべきだろう。かつて、神がアブラハムとの契約を守られ、アブラハムが失敗してもいつもより沿ったように、神が私たちに対しても、キリストとの契約を守られるように祈ることが、現代の私たちの務めである。私たちと神との契約ではない。神とキリストが交わされた契約に基づいて、私たちも祝福される。それは、私たちの功績も性質とは何ら関りがない。私たちの不誠実さにも関わらず、キリストの契約は実行される。そこに私たちは希望をつなぐのだ。神とキリストの契約が破棄されることはない。聖餐がその契約のしるしであるように、私たちは教会でパンとブドウ酒を味わうごとに、主キリストが、神と契約を交わされた祝福が、私たちにもたらされることを信頼するのである。
4.積極的に期待をもって待つ
だから最後に詩人は、神の栄光があらわされることを願いながら、ただひたすら待ち望んでいる。しばしば人は待つ以外に術を持たない。しかしそれは消極的なもの、「諦めの待ち」ではなくて、「神に期待を置く積極的な待ち」である。神に希望を抱くのみならず、積極的に神の業を期待していくのである。
年の暮れに、何かどん底にいる人々の歌を詠むのも、どんなものかな、と思うところもあるかもしれない。しかし今日この箇所が当たったのは、それなりの意味があるのだろう。この詩を読んで、そうだ、そのように苦しんでいる方々と共に、陰ながら祈ろうと思われた方は、その趣旨をよく理解しておられるだろう。私たちは万人祭司であると言われるように、私たちの在り方の本質はとりなしであることを忘れてはならない。自分の事だけを考えるのではなく、自分と同じように痛みを覚えている方々のために、陰ながら祈りとりなす者でありたいし、教会の祈祷会をそのような場にしていきたいものだ。新しい年は、いよいよ熱心に祈る教会として成長していきたいところである。

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