1歴代誌16章

16章 新しい自己認識をもって

<要約>

おはようございます。「人間は記憶の中に生きている」ものです。過去の記憶に縛られて、後ろ向きに生きている、これほど、人生においてマイナスなことはありません。新しい自己認識を持って、その自己認識に生きることでしょう。神は、捕囚の民に、地上で敗れ去った民ではなく、天地万物を支配する神に導かれる民としての自己認識を与えようとされました。天地創造の偉大な神に救われ、支配を受けていることに、目を開かれた、新しい歩みをさせていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.全イスラエルの礼拝

神の臨在の象徴である神の箱が無事、天幕の真ん中に安置された(13-15章)。この章は、その結論的な部分である。献げ物による礼拝が再開され、ダビデが民を祝福し、食物が分かち合われた。通常は祭司が行う行為をダビデが行っている。前章に続いて、ダビデはモーセと並ぶ、新しい出エジプトを導き、王国を設立する指導者の象徴として描かれている。16章が、ダビデによるイスラエルの民に対する祝福に始まり(1-3節)、自身の家族に対する祝福(42)で終わっているのはそのためなのだろう。しかし、既に述べたように、礼拝をささげる主体は、イスラエルの民である。2サムエル6:17では、ダビデがいけにえを捧げているのに対して、ここでは、民がしている、となっている。歴代誌の著者に特有な、礼拝に関わる「全イスラエル」の行為を強調する意図がそこにある。

2.賛美

またこの箇所は、詩文的に読んでいく必要のある、ヘブル語独特の交差配列法と呼ぶ、構造がある。つまり重要なのは、交差配列法の中心に位置づけられた讃美の部分であり、そこにこの章の中心的なメッセージがある。

讃美は、8-22節(詩篇105:1-15)、23-33節(詩篇96:1-13)、34-36節(詩篇106:1、47、48)の三つの部分からなり、それぞれが詩編を部分的に引用して作られている。これらは実際にはダビデの作ではなく、後世のもので、捕囚後のものもあると考えられているが、歴代誌の著者は、これをダビデ時代のこととして再現している。そしていくつか修正を加えながら、著者の時代に適用しながら、引用している。

たとえば13節、著者は、「アブラハム」(詩編105:6)を「イスラエル」と読み替えている。著者の「イスラエル」の用法は明確である。16節、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルとあるように、アブラハムからヤコブに至る、神を求める者たちの流れをイスラエルと総括している。つまり、神を求める者という意味では、私たちもまたイスラエルである、そして私たちの祝福は、「アブラハムの契約」に基づいている、ということだ。

捕囚から帰還した民が、近隣諸国の脅威にさらされる中、礼拝の民として自分たちを再建してくださる主を呼び求め、主に思いを潜め、尋ね求め、慕い求め、思い起すことは、礼拝の中心的な要素であった(8-14節)。

2.新しい自己認識

それに加えてさらに重要なのは、23節以降に示される新しい自己認識である。私たちの神は、国々の民の神々(26節)の上に主権を持つ、という。これが、近隣諸国を圧倒的な勢いで制圧したダビデ王国の時代ではなく、捕囚後に再び取り上げられたことの意義は大きい。というのも、この書の読者は、異邦人の帝国の強力な支配下に置かれたイスラエル人であり、エルサレムの廃墟の前に、自分たちが征服された民である現実を目の当たりにし、失望感をもって立っていた者たちである。しかし、彼らは、目に見える現実がたとえそうであっても、もはや捕囚の民としてではなく、地の帝国の支配者に優る神によって解放された民、祖国に戻ることを許され、礼拝することを可能にさせられた民として立っている。その新しい自己意識に立つように、促されているのである。彼らはもはや帰国を許された、敗れ去った民ではなく、地上の帝国よりもさらに偉大な、天地のまことの支配者の導きの中に生き、その栄光を証する民、祝福の基となる民である。彼らに必要なのは、自分たちを通して周囲の国々が祝福される、とりなし手としての新しい自己認識であった。

実に礼拝は、天地万物の主を慕い求め、仰ぎ、その下にある私たちの新しい自己認識を確認する場である。もはや罪人であって罪人にあらず、キリストにある義人であり、神の和解の福音を委ねられた、新しい人である。その新しい自己認識に、繰り返し立ち、互いにそうであることを確認し、そのように生きていくように献身していく場が礼拝なのである。

3.ただ恵みにより

こうして34-36節の最後の引用は、約束の成就を求める嘆願の祈りとなる。全ての新しさは自分で造り出すものではない、ただ神のあわれみとめぐみによる。ただ神が、私たちをそのように導かれることによる。信仰は頑張りではない。自己努力ではない。能力の問題でもない。神のあわれみと恵みが表されるように生きていく時に、実現する祝福である。だから、祈りが重要である。約束の成就を求める嘆願の祈りが求められる。示唆されているように、この祈りは、捕囚後の礼拝において実際に使われていたのだろう。信頼と期待を持って礼拝に向かうなら、私たちの人生も、教会をも立て直すことになる。

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