ネヘミヤ記5章

5章 愛の配慮

<要約>

おはようございます。外からも内からも、人間の歩みには様々な角度から困難が襲い来るものでしょう。人生苦労はつきものとは言っても、やはり耐え難い状況に追い込まれることはあるものです。そのような時には、せめて内側においては、一息つけるような場でありたいものです。しかしそれは、神の倫理、神の価値に立てばこそのことと言えるでしょう。神の愛と配慮に満ちた教会を建て上げたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエルの内部の窮状

城壁の工事に費やした期間は約2ヶ月弱であった。その間、ネヘミヤたちは、外からの攻撃に備えて、槍を片手にしながらの突貫工事をした。当然農作業や牧畜をする余裕はなかった。そこに飢饉が生じ、深刻な食糧難をもたらした。「食べて生きるために穀物を手にいれなければならない」「私たちの畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない、この飢饉に際して穀物を手に入れるために」「畑やぶどう畑に課された王の税金を支払うために、金を借りなければならない」「今、私たちは息子や娘を奴隷に売らなければならない」と民は次々と窮状を訴えた。すると、このような同胞の困窮した者たちに金を高利で貸して、搾取する者が現れ、一層耐え難い事態を引き起こしていた。外敵の脅威ではない、内部の危機が生じたのである。ネヘミヤは怒った。

2.教会らしいあり方

神の共同体を建てあげるには、この世の感覚を捨て去らなければならないところがある。この世の感覚からすれば高利でお金を貸すのは当たり前のことだろう。お金がないんだったら貸してあげましょう。利息はいくらです。世の中はそうやって動いている。しかし、神の共同体に世の中の考えを安易に持ち込むことは危険である。それは、しばしば世の中とは全く変わらない状況を生み出してしまう。お金を貸し付けることそれ自体は罪ではない。しかし、神の律法は、同胞の生活を守るために利息を取ることを禁じている(申命23:19-20)。貸付が困窮を強いるならば、それは非難されるべき罪である。神のみことばに従って、配慮すべき事柄がある。教会らしい考え方というものがある。

ヨハネは、晩年に書いた手紙の中で、兄弟が互いに愛し合うことを語っている。積極的に愛し合い、支え合い、仕え合うことを語っている。私たちは、同胞の必要を本当に知らなくてはならない。そして必要があれば、自分の利益を考えながら手を差し伸べるのではなく、本当に助けなくてはならない。まさに「私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を畏れながら歩むべきではないか」(9節)なのである。外部から教会に訪れた人たちが、教会に世の中と変わらぬ搾取を見たり、争いを見たりすることほど残念なことはない。やはり私たちは神を畏れている者として、それにふさわしい歩みをすべきであり、知らずに世的な考え方に影響され、それに浸りきって生きているかもしれぬ状況に注意し、そのような状況に気づくならばそれを脱ぎ捨てて神の民の倫理と配慮に生きることが大切だ。

3.ネヘミヤの対応

ネヘミヤは経済的困窮のために売り飛ばされた家族を買い取った。そして負債を帳消しにすることを提案した。そしてイスラエルの全集団がそのことに主の前で合意し、主をほめたたえ、その約束を実行したという。神の民として愛と思いやりを示す独自の在り方を再確認したのである。地の塩であると同時に和合して暮らす歩みが大事である。

ネヘミヤはこの期間、またネヘミヤの親類も総督としての手当も受けなかったという。ネヘミヤが自分自身のみならず親類をも犠牲にしたように、家族皆が犠牲になる、お金の問題ではない大変な苦労があったことだろう。そのような苦労や心遣いに敏感な信仰者でありたい。必要があれば、配慮できる感性をもった信仰者でありたい。

 

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