皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。10章、祭司の任職の後、早くも、祭司自ら任職に相応しい行動を取らなかったことで裁きを受けています。どこに問題があるのか。結果神を認めず、神の期待に応えようとしない奉仕の問題でした。神をまっすぐ認め、感じ、友のように語り合う歩みへと導かれたいものです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.ナダブとアビフの「異火」(10:1-11)
主へのいけにえは、主の命じられたとおりにささげられなくてはならなかった。しかし、祭司に任職されて間もなく、アロンの子ナダブとアビフは、その命令に不従順となり、神の裁きを受ける事態が生じたのであった。問題はいくつかありそうである。一つは、異なった火をささげたためである。つまり、聖なる目的のために用いられる火は、祭壇の火でなくてはならず、祭壇以外の火は「異なった火」と呼ばれた。なぜそのような火がささげられたのかは、わからない。しかし伝承では、8-9節で、祭司がぶどう酒と濃い酒を飲むことを禁ずることが定められているので、飲酒のせいであった、と推測されている。酒に酔って、神が定められた方法にそってすべきことをしなかった、聖ならざるものを聖なるものであるかのように、主にささげてしまった、ということである。そして二つ目に、火皿に香を盛って神にささげるのは大祭司の仕事とされていたが、彼らは、その仕事に手を出してしまった。エレミヤの時代には、エルサレムの女たちが異教の神々に香をささげる儀式を行っていたことからすれば(エレミヤ44:25)、彼らも、神の定めをよく理解せず、異教の習慣を取り入れてしまったのかもしれない。そして三つ目に、彼らは、モーセやアロンにこうした手順の変更についての相談もしなかった。彼らは、全く神の意志を無視したのである。
こうして9章において、民の献身を喜び、受け入れた神の火は、10章において民の偽りの献身を怒り、裁く火となって現れる。実に、この自己流さ、礼拝において神を認めずに、礼拝をささげようとするあり方が、今日の私たちの問題とも言える。ナダブとアビフの二の前になってはならないのだが、不注意にも自己満足的に、神を愛し、神に礼拝を捧げてしまうことはあるだろう。
2.聖別された食物を食する規定(10:12-20)
だが後半を読むならば、アロンと生き残っているエルアザルとイタマルの問題は、単なる不注意ではなく、意識的な問題、あるいは先入観に基づく問題であることにも注意すべきだろう。16節、「モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した」とある。しかし、それはもう焼かれてしまっていた。問題は、罪のためのいけにえの血を聖所の中に携えた場合は、それらを焼却しなくてはならなかったが、そうでない場合は、その肉を、食べなくてはいけない、と規定されていたのに、それを守らなかった、というわけである。なぜそんなことが起こってしまったのか。このような悲しみの時に、酒によってこういう間違いを犯したとは考えられない。むしろ兄弟が神の裁きを受けた悲しみの時に、肉を食べることはふさわしくないと考えたが故ではないだろうか。それは人情的には理解できることではあっても、彼らは、いかなる場合にも、神が定められたとおりに祭司としての職務を果たさなくてはならなかったのである。
アロンは、「もし今日私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか」(19節)とモーセに問うたことに対して、モーセは「それでよいとした」(20節)とある。なすべき正しいことを認めたアロンに、神の是認があったと考えるべきなのだろう。
大切なことは、聖書は神を人格的な存在として語っていることである。つまり神にもご自身の意思があり、期待があり、感情がある、そして私たちと心を交わしうる存在である。神は、無機質な存在ではなく、人格を有する存在である。とすれば、私たちの神に対する愛し方、神に対する礼拝の仕方、一つ一つに神は、何かを感じておられる、ということだ。しかし現実は、神の人格を認めない礼拝がある。神がお喜びになる礼拝ではなく、自分が満たされる礼拝を求めている、ということがある。自己流、自己満足的な礼拝がある。結果、不注意にも、あるいは意識的、先入観的に、神が望まぬ方法で礼拝をささげてしまう、現実がある。
礼拝において重要な要素は、賛美、祈り、みことばに聞くこと、そして献げることである。賛美は、「霊の歌」と呼ばれる。求められるのは、耳に綺麗な賛美ではなく、信仰の賛美である。また祈りも、美辞麗句で塗り固められた、人に魅せる祈りではなく、霊からほとばしりでる信仰の祈りである。無骨であれ言葉数が少なかれ、心が語られる祈りである。またみことばを聞くというのは、みことば鑑賞であってはならず、それを行う決意と覚悟で聞かなくてはならない。今日のメッセージはよかった。つまらなかった。そんな劇場鑑賞のような聞き方ではなく、真剣に、神のことばに生きる思いをもって聴いていくことを、神は望んでおられる。献げることも同様でそれは心の業である。神の前に聖なるものをささげる、というのは、聖物を持ってくることではなくて、聖なるものをささげる私たちの姿勢、態度にある。
神に従うことは、日々、神に教えられて、神のみこころにかなう歩みをすることに他ならない。一切の先入観、自己流を捨てて、聖書流の生き方を学んでいく。神の人格を尊び、神に献げられた歩みを心がけることが、信仰者のつとめなのである。