皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。9章からいよいよ任職された大祭司アロンに導かれた幕屋礼拝がスタートしていきます。大切なのは、彼らがモーセを通して告げられた神のことばに判を押したように従うこと、そして神がその忠実さに、祝福の火をもって応えられたことでしょう。神へのみ言葉の忠実さを考えたいものです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.幕屋礼拝の開始(9:1-21)
八日目、七日間の祭司としての任職式を終えると、モーセはアロンとその子らに対して、実際に、罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、そして交わりのいけにえをささげるように命じた。これまでささげ物はモーセによってなされていたが、今やその働きは選ばれて任職されたアロンとアロンの子らによって行われるようになった。彼らは、祭壇に近づき、最初は自分のために(8-14節)、次に民のために(15-21節)、罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、交わりのいけにえをささげていく。
祭司として初めての職務遂行にあたり、彼らはことごとく、主が命じられたとおりにすべてを行っていく。「主がモーセに命じられたとおりである」(10節)「規定のとおりにそうした」(16節)、「モーセが命じたとおりに」(21節)と判を押したように繰り返す。そこに私たちの模範もあるのだろう。しばしば信仰生活は自己流に、自分の思いのままになされていることが多い。礼拝に出席するにしても、自分の気分や都合によってなされているのが本当で、聖書が教えているとおりに行うというものではないのではないか。まして献げ物について言うならば、自分が神に献げる物について、どんな時に、どのように、どれだけ、どんな心を持ってということも深く考えずにしていることはないだろうか。
今日の信仰の危機は、そういう意味では、聖書を読みながら、聖書の語っている要点を理解していないところにあるのだろう。聖書を斜め読みし、断片的に適用しているだけであって、聖書が全体として言っていること、最も大事にしてほしいと神が願っておられるポイントを掴んで、それを実践している、というのではないことにあるのかもしれない。そういう意味では、聖書の言葉は、実に不注意に扱われているようでもある。上からの神の言葉を受けるというよりは、自分の気に入った言葉を取捨選択して、好きなように受け止めているのである。聖書が命じていることに注意を払い、それをしっかり行うことに意を注いでまいりたいものである。
2.主の受納(9:23,24)
さて、そのように主の言葉の通りに行った結果、「主の栄光が民全体に現れ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した」(23,24節)とある。何か、恐ろしさを感じる部分でもあるが、この章が一番伝えたい事柄も、そこであったのかもしれない。というのも6節において、命じられたことを行うのは「主の栄光が現れるため」と語られている。そして命じられたことを行った結果、「神が確かにあなた方の中におられると言って、ひれ伏して神を拝む(1コリント14:25)」ことが起こっている。私たちが礼拝を主のみ言葉の通りに行うなら、ここに確かに主がおられる、と主を認めることが起こる、主にひれ伏して神を拝むことが起こってくる、ということである。
もちろんそれは、恐ろしさを持って神を認める以上の意味がある。かつてヤコブは、自らの過ちの故に、家を追い出される結果になった際に、べテルで一晩を過ごしたことがあった。ヤコブはそこで夢を見て、神の祝福を受けて、語られる。「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15)。ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった」と告白している。つまり、神の栄光を見るというのは、神が祝福の神として、望み無き罪人である私たちに向かい合っておられることを知ることにある。
実際、「全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした」(24節)というのは、私たちの心からのささげ物と献身を神が受け入れたことを意味している。罪の深みにあることを嘆き悲しみ、悔い改めの内に救いを願う者に、神は、裁きの火ではなく聖別の火をもって応えられた。神が命じられた通りに行い、献げ物により、悔い改め、新しい献身を示す私たちの心を神は喜んで受け入れ、導かれるのである。
神は、祝福の神であって、永遠に私たちの歩みに寄り添う神である。この神の故に、私たちはあらゆる期待を人生に持つことができる。私たちの礼拝のただ中に、祝福される神がおられることを人々が認めることができるように歩ませていただこう。