レビ記3章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日はレビ記三章、交わりのいけにえについて語っているところです。とても重要な今日的意義のあるいけにです。神はもはや私たちと敵対されることなく、味方となり、私たちに命を与えられる方であることを、覚えるべき、いけにえです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.交わりのいけにえの種類

交わりのいけにえは、①牛(1-5節)、②羊(6-11節)、③やぎ(12-16節)のいずれかでささげられる。ささげるものは動物に限られるので、五種類のささげ物の内、これだけがいけにえ、と新改訳2017では訳されている。動物は、雄のみならず、雌でもよかった。それは、神からイスラエルに提供された食事という目的にかなうものであればよいのであり、原則ささげ物は、傷のないものでなければならなかったが、一部(進んで献げるもの)体型が基準に合わないものでもかまわなかった(レビ22:23)。なお、七週の祭りの時以外(レビ23:19-20)、いつささげるべきかは、定められていない。つまりいつでも自発的にささげられるものとされた。
2.交わりのいけにえの和解の要素
ささげ方については、傷のない動物の頭に手を置き、そのささげ物の血を全部祭壇のまわりに注ぎかけ、脂肪を焼き尽くし、主の前に揺り動かされた胸の部分は奉献物として、ももは奉納物として祭司に与えられた。その他の部分は、いけにえをささげた者と家族や友人たちの食用に与える。
つまり、このいけにえの特徴は、まず全焼のいけにえと同様に、身代わり的な要素を持ち、キリストの十字架を予表する。実際パウロも、キリストの十字架の犠牲について、その意義は、「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」(エペソ2:16)と語っている。イエス・キリストが十字架上で流された血、そのささげられた尊いいのちの犠牲によって、神は、私たちと和解してくださったのである。そして、この和解は、信仰によって受け止められるべきものである(ローマ5:1)。私たちは、この和解を受け止めるために、「信仰」を求められている。主イエスの十字架の犠牲が、神との和解を成立させることへの信仰である。
しかしながら、神と和解することは、私たちの人生にどんな意義をもたらすのであろうか。神なんてものは、遠い存在で自分の生活と何の関係もないと思っている人も多いだろう。しかし聖書の神は、この世界をお造りになり、支配しておられる神である。その神を敵に回すなど考え難いことである。かつて、アッシリヤの将軍セナケリブは、世界の覇者となり、パレスチナの地にまで遠征し、ヒゼキヤ王を脅迫したことがある。「お前は誰に頼ろうとするのか」エジプトと同盟を組んでアッシリヤに対抗しようとしたイスラエルは、赤子の手をねじられるようにいとも簡単に侵略されようとしていた。しかし、天地創造のまことの神を認めず、おごり高ぶったアッシリヤは、その時奇跡的な神の介入により大敗を帰しているのである(イザヤ36、37章)人間は、被造物に過ぎないことを忘れてはいけない。この世のすべての事象は、見えざる神の御手に導かれて成り立っている。謙虚になればこそ、人間よりもさらに遜って和解の手段を自ら差し出してくださる神の存在がわかるのである。
3.交わりのいけにえの食事の要素
さてこのいけにえのもう一つの特徴は、神との平和を象徴する食事の要素にある。全焼のささげ物は、全てが焼き尽くされて儀式が終了した。しかしこのささげ物では、最後に食事が伴うのである。そこで、このいけにえには、「感謝のいけにえ」「誓願のささげ物」「進んでささげるべきささげ物」とも呼ばれ(レビ7:11-21)、儀式の最高潮として、神と和解したことを喜びながら、食事をする時を持った。それは、喜びの交わりである。いつでもささげられるいけにえであったということは、いつでも感謝と共に持ち得るものであり持つべきものであるということだろう。もちろんこのいけにえの食事は、自宅ではなく聖所でなされるものであり、神が招いてくださった宴会としての意味がある。そして、二つの食事があった。一つは奉納者と家族、もう一つは祭司による食事である。しかしながら、注意すべきことは、異教においても同様の食事があったことであり、異教のそれと聖書が教える交わりのいけにえの違いは、宴会主催者が誰かということにあった。異教では、宴会主催者は、いけにえを持ってきた人であり、神を客として宴会に招くのである。しかしレビ記が教えていることは、宴会主催者は、神であり、人が客として宴会に招かれている、ということだ。実際、奉納者は、奉納から血の注ぎの儀式の流れの中で、犠牲動物を神にささげてしまっている。犠牲動物はもはや神のものなのである。だから、神は受け取ったものを、和解の証拠として、今度は、一部を祭壇の上で焼き尽くし、一部は、祭司に与え、残りの部分で礼拝者をもてなすのである。これが自宅ではなく、神の家で食べるように命じられているのは、奉納者が宴会主催者を勘違いしないように、という工夫でもある。だからこの食事の主人は、神ご自身であり、神が、一人一人を和解の食事、和解の宴会に招いてくださっている、とする(黙示録3:20)。そのたびに、それが私たちのものであることを信じ、喜び、目と舌と鼻と胃袋全てで味わう恵みなのである。
 今日で言えば、それは聖餐式の恵みに通じるものだろう(1コリント11:26)。聖餐式のたびに、私たちは、主イエスの十字架の犠牲により和解の恵みにあることを覚えて、感謝をささげる。聖餐は神が招いてくださる、舌で味わう恵みである。聖餐のたびに、私たちは、神が私たちと争うことを止め、敵対されることなく、味方になってくださる平和の契約と和解と交わりの現実を覚え、その霊的な祝福を味わい、感謝をささげる。キリストは、天から与えられたマナのごとき、いのちのパンであり、私たちのいのちを維持するために永遠に与えられた交わりのいけにえである。私たちは神の子羊の肉を食べることによって生きるようにさせられている(ヨハネ6:52)。そこに私たちの力もあり、日ごとにイエスによって養われることの重要さを教えるいけにえである。今日も、いのちのパンである主イエスのからだに預かり、主の恵みに感謝しつつ歩むこととしよう。

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