テモテへの手紙第一6章

6章 偽教師を避け、真理に生きる
1、奴隷への勧め(6:1-2)
 ある歴史家は、ローマ帝国に住む人々の半数は奴隷であったと考えています。その多くは、今日の奴隷のイメージとは違って、教育を受けた文化的な奴隷でしたが、法的にはまったく人間とは見なされていませんでした。そこでキリストにある救いと自由を語る福音のメッセージは、奴隷の心を捉え、信仰を持つ者が多く起こされたようです。しかしそれによって、ある奴隷たちは、信仰を持った主人に対して、キリストにあって対等の兄弟であることを求め、主人を軽んじるようにもなりました。信仰を持ったことで、秩序が乱れ、衝突が生じるようになった。パウロは、それは、神とその教えが悪く言われるような事態であるから、避けなさいと言います。そして主人がキリスト教信仰を持った人になったのなら、益々よく仕えるように、と言います。不思議ですね。ピレモンへの手紙でもそうですが、人間平等なのだから、その考え方に合わない奴隷制度を廃止するように、とはならないわけです。パウロの関心は奴隷制度よりも奴隷制度を生み出す人間の心の罪の問題。人間平等、やはりこういうことはおかしいと気付いていく人が多く起こされることであったと思います。
2.偽教師への警戒(6:3-10)
 3節からは再び偽教師の問題について触れています(3-10節)。パウロは、偽りの教師について警告することから、この手紙を書き始めています(1:3)。また彼らの危険な教えのいくつかを明らかにしてきました(4:1)。それは偽善や禁欲主義です。キリスト教はそのようなものではありません(4:3)。またこの6章では、より根本的な問題を指摘します。つまり、偽教師は、キリストのことばをよりどころとしていないし、敬虔に生きることは考えない(3節)。彼らは宗教を金儲けの手段として考えている。だからそこには、敬虔とは反対のこと、ねたみや言い争い、そんなことが溢れかえっている(6節)。教会において大事にすべきことは「満ち足りる心を伴う敬虔だ」つまり、安心、平和、聖さ、尊さ、そういうものだ。教会で、お金に対する関心が高じるようなことがあってはいけない。お金が足りない、お金がもっとあれば、そんな思いが、信仰の道を誤らせるのだ。むしろ、教会では、11節「義と敬虔と信仰、愛と忍耐、柔和」そのようなものが追及されるようにしなさい。それらが最大の関心事となるようにしなさい、というわけです。偽教師はそのように教えてはくれない、警戒しなさい、というわけです。確かに教会に来たら、教会にしかないもの、キリストにこそ心が集中されるようでありたいものですね。16節、パウロは、キリストは「近づくこともできない光の中に住まわれる」方だと言います。パウロがダマスコ途上で、イエスと出会い、回心した時の経験が語られているのでしょう。本当に十字架で死んだはずのイエス・キリストが生きておられる。イエス・キリストの復活は確かであって、神が十字架によって人類に対する愛を示してくださったというあのことばは真実であって、今なお、私たちに神はその愛を示しておられる。その愛が、キリスト教会の最大の関心事とならなくてはならない。だから、お金に関心があって、教会でとかくお金の議論を巻き起こしがちな人に対しては、すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神にこそ望みを置くように、教えなさいと言います。というのも、来るべき世がある、つまり人はやがて神のおられるところに戻っていく、人は死後皆自分の人生を、神の御前で清算する時が来る、その為に備えられた歩みをするべきだ、というわけです。キリスト教を世の中のいかがわしい宗教と同じようなものにしてはなりません。しかし人間は罪人ですし、救われたといっても、罪の性質は完全に変えられているわけではなく、完成の途上にあるだけなので、容易に教会の中で、間違った関心が肥大してくることもあるでしょう。だからこそ、信仰の本質、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和、そこに常に立ち続けるように、互いに励まし合うことも大事なのです。では今日も良い一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「ヘブル語で書かれた旧約聖書は、一番初め、どの言語に翻訳されたでしょうか?」答えはギリシア語でした。ギリシア語圏に離散したユダヤ人はたくさんいて、そのような人々のために、ヘブル語の聖書はまずギリシア語に翻訳、七十人訳聖書と呼ばれました。では、今日の聖書クイズを一つ。ヘ答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!