エレミヤ書4章

4章 悔い改めは祝福の一歩である
おはようございます。4章は、3章に続く、神の恵みの招きであす。「戻って来るなら、わたしのところに帰れ」と神は率直に語られます。神の御声を聞いたなら、迷わず、神に従うことでしょう。人間にそんなに長い時間は残されていないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.耕地を開拓せよ
 先の3章で、他の神々に身を売っておきながら、なんとわたしの元に戻ってくると言うのか!と神は驚嘆の声を発している(3:1)。しかし、「わたしは恵み深いからあなたがたを受け入れる」と(12節)神は読者を驚嘆させる!4章においても神は、開口一番に、「戻ってくるなら、わたしのところに帰れ」(1節)と重ねる。では、どう戻ったらよいのか。
第一に、「忌まわしいものを除く」(1節)ことである。悔い改めは具体的な行動を伴う。口先だけのことではない。忌まわしい偶像は捨て去ることだ。これは第一段階である。ヨシヤが宗教改革を実行し、神殿から偶像を捨て去ったようなものだ。第二段階は、心の作業である。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(3節)である。イエスの種まきのたとえ話が思い出されるところだ(マタイ13:18-23)。「耕地」と訳されたヘブル語はニール、休閑地を意味する。現在利用されていない空き地のことである。これを耕すには、まず雑草を取り、茨を取り除き、土地を掘り起こさなくてはならない。茨や雑草が生えたままの心に、種を蒔いても、そこによい実りはない。だから「心の包皮を取り除け」と命じられる(4節)。それは、「自分のうちによこしまな思いを宿らせない」(14節)とつながる。大切なのは、自分の心としっかり向かい合うことだ。自分自身に取り組まぬ信仰に成長はない。結局人間は、死にあって神の前に立った際には、持てる付属物ではなく、たましいの値打ちを問われるからである。礼拝を再開する、聖書を本棚から取り出す、というのではなく、心から神を認め、神に従う日々に入っていくかどうかが大事なのである。
2.来るべき裁きの警告
5節からは、北からの災い、来るべき裁きの警告が語られる。ユダの町々が陥落するので、最も堅固な要塞都市へ避難するようにと勧められる(6節)。10節は、神のことばとは別に、偽預言者が、「あなたがたには平和が来る」と、エルサレム侵略の危機をエレミヤの戯言とし、一笑に附す雰囲気があったことを伝えている。しかし、神の言葉に偽りはない。エレミヤは、激しく押し寄せてくる敵の大軍(11-18節)が恐るべき荒廃をもたらすこと(23-28節)、そして最後に残ったエルサレムが、遊女のように着飾り、侵略者に媚びを売るものの、拒絶されて滅ぼされること(29-31節)を明言する。
大切なのは、こうした裁きは、神の契約に対する私たちの違反として起こっていることだ。神のせいではない。私たちがなんやかんやと屁理屈をこねて、まことの神を疑い、拒絶した人生を歩んできたためである(18節)。神は、ご自身の民と契約を交わされ、主のみことばに従うところに祝福が、従わないところにのろいがあると警告された(レビ26章)。迷わず、神に立ち返り、神の祝福を受け継ぐ道を進みたいものである。