エレミヤ書3章

3章 神の愛の深さ
おはようございます。本章は、神の厳しさよりも、人間の理解を超えた神の愛の深さを教えられるところです。神と人の関係は結婚生活に例えられ、たとえ人がその関係を破ることがあっても、神はその関係を解消することはない、神の恵み深さが語られます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.わたしは恵み深い
 1-5節は、3章の続きとなる部分である。ここでイスラエルは、姦淫の罪を犯した「背信の女」、ユダはその妹で、姉に下った神の裁きを見ても恐れず、同じ過ちを犯した「裏切りの女」と呼ばれている。このような女たちがどうして再び元の人の元に戻れるだろうか、しかしあなたがたは窮状にあってそうしようとしている、と神はたとえて語る。ここに神の驚きがある!と言うべきだろう。そしてさらに驚くべきことだが、神は、その姦淫の妻に戻りなさい、と語るのだ。12節「わたしは恵み深いから」と。
神は口先で語っておられるのではない。実際ヨシヤ王の先王、マナセの例が思い出される。マナセは、主の神殿にあらゆる偶像を持ち込み、ユダに偶像崇拝を蔓延らせた悪王であった。しかし彼が、苦しめられた時に主に助けを求めると、神はその願いに応じてくださった(2歴代誌33章)。神は実に恵み深いお方なのだ。
そこで6節、「ヨシヤ王の時代」ユダは「自分の淫行を軽く見て(9節)」いる、と神は指摘される。その時代は、先王マナセとその子アモンの影響がまだ色濃く残った時代であった。そしてヨシヤ王が王となった8年目に律法の書が発見され、それに基づいて宗教改革がなされたのではあるが、それは表面的で、民の心から偶像を取り除き、真の悔い改めを実現するものではなかった、というわけだ(2列王22、23章)。だから神は「背信の子らよ。帰れ」と徹底した悔い改めを求めている。もちろん、神の招きに応じる者は、悔い改めたマナセのようであるか、頑なに拒んだその子アモンのようであるかに分かれてしまう。つまり皆が皆その招きに応じるわけではないだろう(14節)。しかし、わたしがあなたの夫であることに変わりはない、と神は変わらぬ、恵み深い愛を示している。
2.究極的な回復
 神の愛の招きのことばは、次第に終末的な色を強めていく。15節、「私の心にかなった牧者たち」は、これまでの北王国の流れを意識したものかもしれない。ダビデの道に歩まない悪い王たちのもとにあって、北王国は災いにあった。しかしこれからのユダはそうではない。ただこの約束は、終末的なものである。というのも、18節、既に滅びた北のイスラエルとユダの再統合は現実にはありえない。実際「主の御座(17節)」での祝福は、どう読んでも終末的なビジョンを思い浮かべさせる。終末におけるイスラエルの改革と再興は、もはや表面的なものではない。心から神の愛を認め、神に従い、神を中心とする世界の実現である。ゴールはそこにある。しかしそのゴールへ向かう歩みは、23節「私たちの神、主に救いがあります」という真の悔い改めの一歩から始まるのだ。今日、この日から自分の生活の中心に神とよき時を過ごす、聖書通読を据えることにしよう。

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