エレミヤ書5章

5章 よいものを拒むな
おはようございます。神のことばは私たちにどう関わり合うのか、改めて、一人静まり、じっくり聖書を読みながら、今の世のあり様と自分のあり様を考えたいところではないでしょうか。心において神と語り合う信仰が求められる時代であると思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.真実を求める者を見つけたなら
 かつてアブラハムが、ソドムを滅ぼそうとする神と語り合った時に、神は、10人の正しい者が見つかれば、その町を滅ぼすことはない、と語られた(創世記18:32)。しかし、そこには、わずか10人の正しい者も見つからず、ソドムは滅んだ。エレミヤの時代も同様だと言う。5章は、4章に続いて、ユダに下される神の裁きが語られるが、神はエルサレムを行き巡って、そこに一人も「公正を行う、真実を求める者」を見つけられないと言う(1節)。誰も彼もが、主を神と告白しながら、その行いにおいては否定している。つまり口で言うほどに神を信じてはいないのだ。
 そこでエレミヤは思った(4節)ひょっとして、それは教養のない下々の人々の問題なのだろうか?いや、そうではない、教養のある上流階級の人々も同様で、すべて人は、まことの神を認めることはなく、その神を恐れて、正しい生き方をしようとする者はいない。否それどころか、積極的に神を否定し、エレミヤよ、あなたが言うような災いなど起こるはずがない、と言う人ばかりである(12節)。エレミヤは反論して言う。神が生きておられることは確かなことだ。神のことばが真実であることを、いずれ痛みをもって味わい知ることになるだろう、と(14節)。以下19節までは、ユダ南王国がこれから受けるバビロン捕囚の悲劇を語る。
大切なのは、それが、申命記29:22⁻28の契約に基づいた裁きの宣告であることだろう。かつて、イスラエルの民と神は、神に従うなら祝福を、従わないのならのろいを、と契約を交わした。契約が破られたならば、その報いは当然である。しかし逆もまた然りなのである(24節)。なぜ人間は、素直に神にあってその祝福を受けようとしないのか、なぜ強情で逆らう心を持つのか不思議であるが、それが人間の罪、愚かさと言うべきものなのだろう。
2.上に立つ者の混乱
 26節以降は、宗教的指導者の罪が指摘される。レビ記には、社会的立場によって異なる献げ物の規定が記されている。王位や指導的立場にある者は、それだけ高価ないけにえが求められた。罪は、身分の低い者、卑しい者だけの問題ではない。神の道を説く宗教的指導者も同じであり、彼らもまた口では言うほどには神を信じても恐れてもいない現実があったりする。もしまことに神を恐れる宗教的指導者が一人でもいれば、このような荒廃は起こらないとエレミヤは言う(30節)。「預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している(31節)」それは単に昔話なのだろうか。神がCOVID-19禍を赦され、キリスト者から会堂を取り去り、分断をよしとしたのは、改めて一人一人が純真に神のことばに耳を傾け、神に聞き従う時を得させようとしている、と言えないだろうか。

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