エレミヤ書6章

6章 信仰に生きる
おはようございます。今日の6章でエレミヤの初期の預言が一区切りとなります。エルサレム滅亡を預言するものでしたが、それらが未信者に対するものではなく、形式的な信仰を持つ者への裁きのことばであることに注意すべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.エルサレムへの警告
 6章で、エレミヤの預言が一区切りとなる。それは、ヨシヤ王時代の初期の預言集であり、神が、エルサレムを容赦なく裁かれることを伝えている。ベニヤミンは、エレミヤの出身部族だから、エレミヤは自分の部族へ呼び掛けている。「テコア」「ベテ・ハケレム」は、いずれもエルサレムの南にある町で、敵は北から侵略してくるのだから、これらの町は、エルサレムの住民の避難先となったのだろう。その受け入れ準備をせよ、と言う。
当時の戦争は、通常朝から始められ夕方には終わるものであったから、夜襲は卑劣な手であった(5節)。しかしそのようにしてエルサレムは徹底的に滅ぼされる、と預言される。それは、エレミヤが目撃している事実を伝えているわけではない。あくまでも主の幻、主の預言のことばである。そこに、エレミヤの独白が加えられる(10-11節)。いったいこれ以上誰に伝えようというのか。誰も耳を傾けない。むしろ、そしりを受けるのみ。「彼らは(神の預言を)喜ばない」のだ、と。そこに、主の怒りを自分の怒りとして感じる預言者の姿がある(11節)。主がエレミヤに応じて言われる「その怒りを、エルサレムの住民にぶちまけよ」と(12節)。その中には、道端にいる幼子とたむろする若い男も含まれた。一般に彼らは次世代と呼ばれる、社会の希望である。だが、それはしばしば、神に無関心な世俗社会の象徴でもある。だから片や、13、14節のように、活動はしているものの、形骸化した宗教の現実も指摘される。神は言う「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香の良い菖蒲が、わたしのところに来るのか」(20節)。神のための最高の礼典が行われるために、輸入品すら使われるが、そこに神への心はない。すべて形ばかりで、神の心に触れる告白も、祈りも、ささげものもない。神にとってはまことに居心地の悪い、礼拝の時なのである。けれども、なんともそんな礼拝を献げている現実があるのではないか。
2.試す者預言者
27節「わたしはあなたを、わたしの民の中で試す者とし、城壁のある町とした」新改訳は直訳であり「城壁のある町とした」は意味不明である。原語の意味そのものがよくわかっていないためでもあるが、主旨は明確で、神は、エレミヤを通して鉄くずのようなユダの人々の中に、貴重な金属があるかどうかを探そうとした、と言う。そして残念なことに、そこには捨て去るべき廃物の銀しかなかったと言う。エレミヤが神のことばそのものであったことに注目される。しかもその神のことばは、神の民に向けて語られたものであった。日本のような異教の国にあっては、まず宣教を、と未信者へ神の言葉が浸透することが願われる。しかし、実際は、今教会へ足を運ぶ信仰者にこそ、真摯に神のことばが、試金石のごとき神の人によって語られる必要がある。神のまことの命に燃やされた教会こそ希望である。

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