詩篇106篇

106篇 神の豊かな恵み

おはようございます。賛美と祈りを持って始まり、長い罪の告白があり、また逆順の祈りと、賛美で閉じられる、良く構成された同心円的構造をなしています。礼拝用のハレルヤ詩篇として良く構成された構造を持ちながら神の「豊かな恵み」を仰ぐ内容となっています。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

この詩篇は、イスラエルの罪と不誠実さを振り返っている。先の105篇が、族長時代から出エジプトの歴史を振り返り、契約に誠実で、大いなる御業によりイスラエルを守り祝された主を覚え賛美するものであるとすれば、この106篇は、出エジプトから王国成立までの歴史を振り返り、契約に不誠実で、反逆の歴史を繰り返したイスラエルに対して、神が恵み豊かであったことを語ろうとしている。つまり詩篇105篇は、アブラハム契約に誠実な神を讃えているが、この詩篇ではほぼ同じ歴史を振り返りながら、神の「豊かな恵み」(7節、45節)がキーワードになり、賛美をささげている。

詩それ自体は、賛美(1-3節)と祈り(4-5節)をもって始まり、祈り(47節)と賛美(48節)をもって閉じられ、その間に、長い罪の告白が挟まれる同心円的な構造になっている。罪の告白は、出エジプトの紅海徒渉での不信仰(6-12節)、荒野の放浪中、肉を要求したこと(13-15節:民数記11章)、モーセとアロンへの反逆(16-18節:民数16章)、金の子牛の鋳造(19-23節:出エジプト32章)と続き、再びカナンに近づいた時の二つの失敗、カデシュ・バルネアで主の約束を信じなかったこと(24-27:民数13章)とバアル・ベオルで偶像礼拝の罪に陥ったこと(28-31:民数25章)が語られ、最後にカナンの地定住に続く士師時代の堕落と解放の出来事(32-46節)と記される。

なお、最後の賛美47-48節は、1歴代誌16:34-36のダビデが命じて作らせた賛美の最後三節と同じである。詩篇が先か、歴代誌が先か、よくわからないが、ハレルヤ詩篇として受け止めるなら、歴代誌を引用して詩篇が礼拝用に整えられたと考えることもできる。

2.豊かな恵み

イスラエルの歴史は、神を見捨てる反逆の連続であり、不信仰と不誠実さの繰り返しである。普通は、神に見捨てられて当然のところだ。しかし、そうならないところに神の「豊かな恵み」が明らかとなる。神の愛の深さ、強さは私たちの想像を超えている。神の契約を守られる忍耐、頑固さ、執拗さが、私たちの模範である。私たちの愛が薄っぺらなのは、「豊かな恵み」と一言でまとめられる、神の愛の深さを理解していないからだろう。

23節破れ口に立ったモーセの姿も印象的だ。昔、娘が学校で聞いた話を思い出す。「風呂の栓のような人間になれ」と熱く語る面白い先生がいた、と。風呂の栓なくして風呂には入れない。物事をなすになくてはならない存在になれ、というわけだ。イスラエル反逆の歴史の中で、モーセは、そのような存在となった。誰もかれもが不誠実で愚かな歩みをし、すべてが滅びに向かっているかのように思われる中で、肝心かなめの破れ口をふさぐリーダーシップを発揮した、というわけである。

47節「私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください」この詩篇が捕囚帰還後に詠まれた、と言われる部分であるが、必ずしもそうだとは言い切れない。むしろ注目すべきは、詩人がイスラエルの完全な回復を祈っていることだ。それは、イスラエルの再建を励ますことを目的に書かれた第一歴代誌7章で、北イスラエルの民が振り返られているのと同じである。つまり、詩人は、直接的な読者である南ユダの帰還者だけではなく、彼らよりも150年も昔に滅びてしまった北イスラエルの民を含めた、イスラエル全体の再建をビジョンとして語っている。「国々から私たちを集めてください」主を愛する者が皆集められて教会が完成される喜びを願うこととしよう。

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