7章 確実なもの、不確実なもの
おはようございます。人生において生は相対的なもの、死は絶対的なものです。動かしがたく絶対的な死に直面した時に、人は、自分の生を改めて考えるものですし、キリストが十字架と復活において死に勝利したことの意味を受け入れる気持ちになるものでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.知恵について、再考
「良い名声」も「香水」も、その人から香ってくる。どちらが良いか、人によって好みが違う香水よりも、絶対的な名声だろう。生と死、どちらが良いか、絶対的な死である。死は確実で、死こそ風のような人生にピリオドを打つ。だから、死が全てを支配している現実に直面させ、その事実を認識させる喪に参列することは、人間にとってよいことである。
ヘブル語原文では1節、「名声」(シェーム)と「香油」(シェメン)に語呂合わせがある。6節「鍋(シール)の下の茨(シーリーム)」にもそれがある。当時いばらは簡便な燃料として用いられた。そのように愚かな者の笑も、騒々しくはあっても、一瞬である。1-4節と、5-7節は、どうつながっているのか、唐突な内容のようでもあるが、死だけが確か(1-4節)なのだから、大事なことに悟る力を持て、と8-10節に繋がる、と理解すべきだろう。
そこで8節、試練には必ず神の目的があり、価値ある結果をもたらす。ヨブがそうであったように、忍耐の欠如は神の取り扱いに対する高ぶりとなる。短気は損気である。9節、「いらだち」は煮えたぎるような怒りを意味する。感情をぶつけられるような怒りを、忘れるのは難しい。過去に拘り過ぎてはいけない(10節)。古き良き時代というものはない。いつの時代も同じだ。悟ることだ、という。では、何を悟るべきなのか。人生において決定的なのは、神の存在である、ということだろう(13節)。神が決定されたことを変えることはできない。世俗的な知恵を得ることよりも、この事実を認識し、神の前に遜ることである。
これが、さらに明確なよき真理として示されるのは、新約聖書においてであろう。というのも、人間にとって絶対的であり、確かな死は、キリストにあって滅ぼされたのであり(1コリント5:26)、人は、確実な死に向かって、空しい生を繰り返す生き物ではないことが、明らかにされたからだ。キリストのもとに、順境の時には素直に楽しみ、逆境の時には、素直に我を顧み、神を信頼し生きる人生の楽しみがある。
2.単純な知恵ではなく、悟りを大事にする
後半は中庸の徳を語っているかのようであるが、そうではない(16節)。正しすぎてもだめ、悪すぎてもだめ。知恵がありすぎてもだめ。愚かすぎてもだめ。極端に走るのではなくて、中庸を選んでいく。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」視野に入れつつ、神が与えられるものをしっかりつかみ取っていく生き方である、かのように。そうではなく、伝道者は人間のいかなる知恵をも否定しているのである。人は、どんなに知恵ある者になろうとしても、それはできない。むしろ、自分が持つ知恵と知識の不十分さを認めて、いや、人間の罪性がそれを歪めている現実を理解し、神の前に遜りつつ生きるべきことを推奨している。それこそが誠の人生の意義を見出す知恵なのである。