「イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょう。」(6:12)モーセは、自分が口下手であると語った。神の任務を遂行するにあたり、決定的な能力に欠けている、というわけである。しかし、神が選んだのは、その口下手のモーセである。そして神がモーセに選んだ役割は、ファラオに対して神となることであって、説得することではなかった(1節)。つまり、神が何であるかをその存在をもって示すことであって、言葉で人を動かすことではなかった。こうして「彼らがファラオに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった」(7節)という。二人の老人が、ファラオの前に立った。かつてペテロとヨハネが、議会で取り調べられた際に、議会に出席した人々は、二人が大胆でありながらも、無学な普通の人であることを知って驚いた、とされるが(使徒4:13)、まさにそのような光景であったのかもしれない。彼らもまた、神を証ししようとしたからである。神は、ファラオの前で不思議としるしを行われる、という。不思議は、目撃するものを驚かせるような出来事であるが、しるしは、不思議を越えたものである。なされた奇跡そのものよりも、なされた方の恵みと力を証しする信任状である。つまりモーセが神に遣わされたことを明確に証しするしるしである。主はモーセを通して力を現される。無学な普通の人であれ、弱き者であれ、神はご自身の力を現される者として用いてくださるのである。
主は、彼らを通して、エジプトに十の災いを起こされた。それは、イスラエルを行かせようとしないファラオにご自身の存在を力強くあかしするためであった(7:17)。次々と引き起こされる災いは、エジプトの季節的な災害と順序が同一であるとも、また、火山の噴火に伴う災厄に重ねられるともされるが、それらは自然に発生したものではなく、明らかに神によって引き起こされたものである(8:19)。
十の災いのうち最初の九つは、三つの災いごとにセットにして語られていると考えてよい。第一は、血の災い(7:14-25)、蛙の災い(8:1-15)、ぶよの災い(8:16-19)のセットで、アロンの杖が使われている。また第二は、あぶの災い(8:20-32)、家畜の疫病(9:17)、腫物の災い(9:8-12)のセットで、杖が使われない災いである。第三は、雹の災い(9:13-35)、いなごの災い(10:13-35)、暗闇の災い(10:21-29)のセットで、モーセの杖が使われる。
これらの災いは、先にも述べたように、まずイスラエルの神が万物の主であることを知るようになることを目的とするものである。たとえばエジプト人はナイル川をエジプトの神々の主神、オシリスの血流であると信じていた。またナイル川の精霊であるハピ神を崇拝していた。だから、ナイルの水を打つことは、エジプトの神々のオシリスとハピの敗北を意味した。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを晒せなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない」(5:2)と答えたファラオに対して、神は、「主」が何者であるかを知らせる。新改訳聖書は「主」を太字で強調している。これはヘブル語で、通常の「主」を意味することばとヤハウェ(YHWH)と読まれる神聖四文字の「主の御名」とを区別して訳すためである。この神の名はすでに父祖の時代から知られていた名であり、新しい名ではない。つまり、これから新しい御業を行われる主が、父祖の時代の神と同一であることを明らかにしている。つまり、主とは何者か?それは、イスラエルの父祖が呼び親しんだ、全能の神であり、天地万物を創造し支配されるお方である、というわけだ。この主の命令によって、祝福をもたらすものとして崇拝されていたナイル川は、のろいをもたらすものとなった。礼拝の対象であったナイルが、胸が悪くなるような腐敗臭でエジプト全土を覆い、忌み嫌うべきものとなるのである。
そこにイスラエルを奴隷とし、使役し苦しめたエジプトに対する主の怒りと復讐がなされた、とも考えることができるのだろう。実際、ナイル川は、ただ見かけ上血のように赤くなったのではなく、臭くなり、その水は飲めず、その川の魚は死に絶えた。そして彼らはまず飲み水を求めてナイル川の周辺を掘っている。つまり彼らのいのちと生活が脅かされた。彼らもまた奴隷が味わった生き延びる苦しみを味わうことになった。神は、私たちのために戦ってくださり帳尻を合わせられるお方である。エジプトの神々とエジプト人が神によって裁かれていく。主は正しいことをなさるお方である。