創世記16章 サライとハガル
1.子どもを得ようとするサラ(16:1-3)
日本人の信仰は、二階建て信仰だと言われることがあります。信仰生活と日常生活が結び付いていない、教会では信仰生活らしき面が出るものの、教会を一歩出ると、日本人的な現生主義、幸福主義の生き方に切り替わってしまう。それは、神を信じて形作られる信仰的人生観、世界観が、日常生活を変えるほどのものではないからでしょう。。
アブラムとサラも同じでした。彼らの信仰も、神の真の偉大さを理解するものではなかったのです。神に子孫繁栄の約束を与えられていたサラが、実際に、子孫を得るために、女奴隷のハガルを使おうとしたのは、そういう理由によるものです。
同時代のハムラビ法典には、母となることが禁止されている女祭司の結婚について、特別の取り決めを定めています。つまり女奴隷を夫に与え、女奴隷に子どもが与えられた場合、あくまでも側室としての立場を忘れてはいけない、という取り決めです。同じような慣習は、他の地方にも見られることから、サライが自分の悩みの解決のためにアブラハムに要求したこの方法は、突拍子もないことではなかったのです。
ともあれアブラムがこの地に移り住んでからすでに10年、なかなか世継ぎが与えらず悩みを重ねていたアブラムにとって、自分の家のしもべ、ダマスコのエリエゼルが跡継ぎになるのでなければ、「あなた自身から生まれ出てくる者」とするなら、当時の社会的慣習に沿った妻サライの提案を受け入れるのがベストだと考えたのでしょう。しかし、神の思いは、アブラムの思いを遥かに超えるものでした。信ずべきは「全能の神」というその神学的意味が、彼らの中で深められ、練られていく時間が、彼らにも必要でした。
2.サライとハガルの衝突(16:4-16)
こうして、女奴隷のハガルによって子を設けたアブラム、表面的にはとりあえず目的が達成されたように思われたのですが、思いがけない争い事が生じていくのです。ハガルは側室としての分を超え、女主人のサライを見下げるようになり、サライはハガルのその態度に我慢がならず、ハガルをいじめ、家から追い出してしまうのです
サライの都合によって振り回されたハガルの人生も散々です。ハガルは、自業自得と言え、ただ死を待つしかない、荒野に放り出されていくのです。しかし世の中には、このような力ある者の都合に振り回され、無力で哀れな、踏みにじられるような経験は珍しくないでしょう。神は祝福を語られるが、そうではない現実。神は金持ちの味方、権力者の味方、と思わされる時があるものです。
しかしこの16章は、どのような事態が起ころうと、神が決して哀れな人を見捨てることはないことを教えているのです。そして、主が人を助ける方法は、そんなに簡単ではないことを教えています。主の使いは、死を選ぶか苛め抜かれるかではなく、死を選ぶか、それとも、遜って神の恵みの時を待ち望むかの選択を促しました。ハガルが生き延びるために上から与えられた知恵は、嫉妬にかられた女主人のもとで身を低くすること、そしてアブラムと同様に、神の祝福の約束に信頼することでした。信仰を持たずして、神の解決に与ることもできないのです。
果たしてそれから約10数年、ハガルは主に従順な忍耐の時を過ごしました。そして確かに、主の祝福を得、生きながらえたのです(25章)。ここに知恵があります。
「ベエル・ラハイ・ロイ」その意味は、「私を見られる、生きておられる方の井戸」です。主人の気まぐれに翻弄され、惨めな人生を強いられた女に目を留めていた方がいるのです。いや、心配して声をかけてくださる方がいます。その神の語り掛けが、もはや自暴自棄になって、井戸の傍らでへたり込んでいたハガルに、井戸の水を飲んで力を取り戻すことを可能にしたのです。自分はゴミ屑同然に捨てられた、自分の人生は終わった、もう駄目だと思う時にこそ、この神を思い起こしたいものです。彼女もまた、神の可能性に生きるチャレンジを与えられているのです。それはあなたも同じです。神を信じましょう。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「シナイ半島の中央部からカディシュバルネアを通って、地中海に注ぐ川は、イスラエルとエジプトの国境となる重要な川でしたが、何と呼ばれたでしょうか?」答えはエジプトの川でした。では、今日の聖書クイズを一つ。シナイ半島の地中海よりにあったものが、シュルの荒野、スエズ湾よりにあったものが、エタムの荒野、では、アカバ湾よりにあった荒野はなんと呼ばれたでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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