創世記34章

創世記34章 シェケムとディナ
1.ディナを求めたシェケム(34:1-29)
 昨日読みましたとおり、ヤコブは、「兄にセイルへ参ります」と語りながら、実際には、そうしませんでした。むしろ、ヤコブは、兄が帰っていったセイルとは別の方向、西へと移動しシェケムに土地を買い、住み着いてしまったのです。なぜ彼はここに住み着いてしまったのか、よくわかりません。ただ神はそれをよしとはしませんでした。娘ディナに起こった事件によって、ヤコブは、シェケムに留まることを許されなくなってしまうのです。神のみこころは、しばしば、状況の変化、環境の変化によって理解されることがあります。
「ディナはその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた」とあります。しかし、ディナが出会ったのは女ではなく、族長の子シェケムでした。しかも、シェケムはディナを捕まえて強引に関係を迫り辱めるのです。ただ、シェケムはディナの虜になってしまいました。「心を奪われ」の直訳は「彼の魂(心)はディナに結びついた」であり、「優しく語りかけた」は、「彼女の心に語った」です。シェケムは、ディナを自分の妻にしようとします。
事態を知らされた父ヤコブは黙っていました。しかし、兄のシメオンとレビに、この事態は、到底受け入れられるものではありませんでした。彼らは、割礼を受けることを条件に、妹のディナをシェケムの妻にすることに同意しますが、企みあってのことでした。彼らは、シェケムとハモルに仕返しをしようとしたのです。残念なことは、割礼という神聖な、神との契約のしるしを、復讐の手段としたことでしょう。神を恐れることもなく、信仰の手段を悪用する、それはまさに罪人の姿でした。ともあれ、ハモルとシェケムは、その申し出を受け入れ、割礼を受けるのです(23節)。しかし、割礼の傷と痛みのまだ癒えぬ状況にあった時に、彼らはヤコブの子らに襲われ皆殺しにされていきます。なんとも残念な出来事です。
2.ヤコブの戸惑い(34:30-31)
ヤコブは、この事態を困ったことと考えました。しかし、彼はシメオンとレビの蛮行に異を唱えたわけではありません。ただこの地域の人々に憎まれる事態に陥ったことを気にしていました。つまり、自分と家族の身を案じたのです。それは、自らの身は自ら守らねばならなかったこの時代の脅威を考えれば当然のことであったかもしれませんが、そこにもヤコブの自己中心な罪人の姿があったと言えるでしょう。信仰者と言えども、完璧ではありません。いつも何が正しいことかを考えて生きているわけではなく、自己利益的に生きていて、その事態に気づかずにいることもあるでしょう。神の契約のしるしを軽んじたヤコブの子らたち、何が正しいのかという観点から、シェケムにも、子どもたちにもいうべきことを持たなかった父ヤコブ、彼らはいずれも、神を呼び求めはしても、常識的に考えていささかずれた人間です。信仰者の模範というべきようなものではありません。
そのような意味では、こうしたヤコブとその一家の姿は、私たちに信仰のありようを考えさせてくれるものでしょう。なぜ神を信じるのか、なぜ神と共に生きるなどということを人前で語るのか、神の愛と神の正義に生きることに、絶えず人間として精進するのでなければ、ご利益主義、ご都合主義の信仰でしかありません。神社仏閣に行って、年に一度、あるいは、必要に応じて学業成就、商売繁盛、家内安全を祈願する信仰と何ら変わらないものでしょう。日々、聖書を読み、わずか10分であれ20分であれ、神を喜ぶ時を持つ、神に教え諭される時を持つ、そして神の生活原理原則に生きる、そのような習慣なき人生は、皆、ご利益信仰というべきものです。神は、天地万物、そして人をお造りになり、この天地万物を治めておられる偉大なお方です。その神を信じる信仰というのは、そんなに安っぽい営みではないのです。信じているものの価値を知り、それにふさわしい歩みをさせていただきたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「聖書には、ヤコブが家族と共に宿営したスコテと、もう一つモーセがイスラエルの民を連れて宿営したスコテがあります。後者のスコテは、どの地にあったでしょうか?」答えは、エジプトでした。スコテは、当時下エジプトにおける第8州の首都でした。今日のテル・エル・マスクタと考えられています。では、今日の聖書クイズを一つ。シェケムは、後に、イスラエル12部族の誰の相続地になったでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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