申命記1章 モーセの最初の説教(1)
<要約>
皆さんおはようございます。本日より申命記に入ります。カナン征服の戦いを目前としたイスラエルの新しい世代を霊的に整えていくための、モーセの説教集というべきものです。彼らに求められたことは、神の存在を認め、神の素晴らしい業と神の愛の御性質を認めて未知の世界に踏み出す勇気を持つことでした。信仰の一歩を踏み出す者でありたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1. 一般的序論(1:1-5)
当時、ヨシュアの指導のもとに、パレスチナ一帯がイスラエルに征服されたことは、歴史的な事実とされている。ただし考古学的な証拠からは、それがBC1400年頃の出来事なのか、それともBC1280年の出来事なのかを確定することはできない。しかしながら、この書は、ほぼそれ以前に書かれたものを元にしていることは間違いなく、著者はモーセと推定されている。
2.歴史的回顧(ホレブとベテ・ぺオルの間における神の力強い行為)(1:6-3:29)
既にモーセは、晩年を迎え、死の直前であった。モーセは自分がその民とともにカナンの地に入って行くことができないことを知っていたので(民数記20:12、申命記1:37)、指導者として与えておかなければならない教えを、神が命じられるままに語った。そういうわけで、第一説教(1:6-4:40、)第二説教(4:44-26:19)、第三説教(29:1-30)、告別説教(30:44-33:29)と、四つの説教からなる。
第一説教は、モーセがこれまでのことを回想して語っており、この1章は、民数記10-32章に記された事件についての回想である。しかしそれは、前進のための回顧であった。前進するためには、前をしっかり見つめてビジョンを描かなければならないだろう。けれども、自動車のバックミラーが後進するためよりも安全に前進するために必要であるように、歩んできた過去の尊い経験を、特に神様の導きの手を回顧し、反省することが前進のために重要である。この説教は、荒野で生まれ育った新しい世代、出エジプトの歴史的事件を知らない世代に向けて語られている。
1)占領における最初の試み(1:6-46)
(1)契約に基づくモーセの命令(1:6-8)
イスラエルが神を知るようになったのは、神話的または神秘的、哲学的な議論を通してではなく、モーセを通して直接ご自身の存在を明らかにし、語りかけられたことによる。そこでモーセは、新しい世代に対して、古くから与えられている神の約束を示しながら、エジプトから解放されたイスラエル人が、なぜ荒野に留まり続けているのか、それは、不信仰の故であったことを思い起こさせている。そして「向きを変えて出発せよ」と語りかける。新しい人生に踏み進むということは、勇気のあることだ。どんな明日が待ち構えているかわからない、と思うからこそ、神の約束と誓い信頼して踏み出していかなくてはならない。神に対する不信仰の故に、荒野に留まり続けるか、それとも神に信頼して一歩を踏み出すか。荒野からの脱出には、もう一度出エジプトの時と同じように、すでに与えられている神の約束に信仰的に応じる必要があった。不毛不作の人生、荒野に放置されたままの人生にある、と思うなら、そこから脱出する方法は、神の声に真摯に耳を傾け、心から信頼して応答することである。神は言う。「見よ。私はその地をあなたがたの手に渡している」(8節)歴史を支配しておられる神が、新しい未来を私たちに約束されている。だから、信仰をもって「どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなた方に約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように」(11節)と祈り合い、従っていくことが幸いなのである。このように信仰は具体的な生活の中で体験しつつ学ばれるものであり、善意なる神に未知の明日の結果一切を委ねて踏み出していくものである。
(2)指導者たちの任命(1:9-18)
さてモーセは、出エジプト18:13-26の場面を回想している。あの時、モーセは、大勢の民を治め裁くことに疲れ果ていて、神の働きを担うことのできない弱さを深く意識していた(9節)。アブラハムに対する神の約束は、イスラエルの不信仰とは別に、現実化し、アブラハムの子孫は、「空の星のように多く」なるまでに増えていたのである。このように数えきれないほど多くの民を治めるために、「知恵があり、判断力があり経験に富む人たち」の助けが必要であった。アブラハムへの約束の実現は、現実的には、さばきつかさの任命と、軍事上の組み分けなど、(16節)神の民の組織化という現実的な課題に繋がったのである。これらは何を語っているのか。この箇所は挿入的な内容であるが、それは同時に、信仰生活をここまで建てあげて来たことが回想されている。つまり、私たちは信仰生活を進めていく時に、感激的な時を持つ努力を忘れてはならないのであるが、信仰生活の年限を正しく重ねていくためには、それだけではだめなのである。感激的な経験とともに、信仰者としての組織的な努力が必要なのである。個人においては規則的な生活づくり、正しい意味での癖を信仰生活の中に形成していくことであろうし、さらに教会においては、其々に与えられているタラントに応じて、重荷を負い責任を果たすことができる秩序作りが必要である。それは、単に階層化を進めるというのとは違うものである。神の祝福はそのような苦労、努力とともに与えられていく。個人として、また教会として、良識のある組織化が必要である。聖霊は、秩序ある信仰生活の確立のための努力を祝福してくださる。そうすれば感激がない時にも、信仰生活は継続される。個人的な信仰のスタイルを確立すると同時に、教会において、自らの役割を得て、自らを生かすことを考えることだ。神の多くの祝福を受けようと思うならば、兄弟姉妹の中に自分自身をしっかり位置付けることである。一匹狼的なクリスチャンにならないように注意したい。
(3)ホレブからカデシュ・バルネアへ(1:19-46)
この回想は、民数記13-14章に語られている出来事の要約である。すべてのことが、イスラエルを約束の地へと迅速に、安全に導くために行われたのであるが、イスラエルは、神の命令に対して反抗し抵抗してしまったために40年間その地の外側に留まることを余儀なくされてしまう。しかしモーセの回想の言葉の中に、神がどんな方であるかが語られている。イスラエルの民は、「主は、私たちを憎んでおられる」(27節)と考えたが、神は、「あなたがたに先立って行かれる神」(30節)である。また「あなたがたのために戦われる」神である(30節)。さらに「全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれる」(31節)のだ。
イスラエルの継続的な不信仰と不従順の故に、わずか11日の旅路が40年の旅路となり、最初の世代が死に絶え、新しい世代が成熟するまで、イスラエルは荒野を放浪しなくてはならなかった。神は輝かしい勝利へと導こうとされていたが、彼らは神をそのように考えず、つぶやき、自分たちの目の前の脅威に執着し、自らこころをくじき、不信仰の中に留まり続けた。しかし、神が先立ち戦われる神であることに変わりはなく、またたとえ私たちが不従順であるとしても、神が私たちを見捨てずに、共におられることに変わりはない。問題は不信仰の心を捨て去り、主がまさに召し出してくださる時に、しっかり信仰によって応答できるかどうかにある。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(ヨハネ11:40)と語られる神のことばを胸に、前進することなのだ。
神の存在を認め(30節)、神の業を認め(30節)、神のご性質、つまり神の限りない愛と慈しみを認め(31節)、未知の世界に踏み出す勇気を持つ、これが信仰である。神の約束があるからといって、私たちはそれに自動的に祝福に与るわけではない。周囲の目に見える事情に左右されず、先導される主を信頼し、従っていくことである。主の前で泣かなければならない苦しみがあるならば、その現実を逃避することなく受けて、神様の導きが何であるかを待ち、乗り越えていくことであろう。