139篇 全知、偏在、全能の神
おはようございます。神は全知であり、偏在、そして全能のお方です。大事なことは、神は全てを知った上で、私たちを愛し、その偏在性と全能性をもって関わってくださることです。そうであればこそ、神への深い愛もさらに増し加えられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.全知の神
神のご性質について、色々と教えられてる詩篇である。1節「主よ。あなたは私を探り、知っておられます。あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。」私たちが信じている神は、全知の神である。すべてを知っておられる。人の立ち居振る舞いのみならず、口を開く前に言いたいと思っていることをすでに知っている(4節)という。「さとり」という昔話があるが、神は、私たちの内にある思いを、何でも既に知っておられるお方である。
2.偏在の神
そして第二に、神はどこにでもおられる、遍在の性質を持つ。「私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて」(7節)。神の視野から逃れて身を隠すことはできない。たとえ、天に上ろうと、死の世界に下ろうと、神はおられる。かつて罪を犯したアダムは、神の裁きを恐れて、身を隠そうとした。しかし、神はアダムがおられた所を知っておられた。神に闇も光も関係がないのである。
一方、イエスは、神を礼拝する場所は、この山でもなく、エルサレムでもない、真の礼拝者たちが霊とまことをもって礼拝する(ヨハネ4:23)と、教えられた。神はいずこに縛られるようなお方ではない。どこにあっても、心から神を呼び求めるならば、神はそれを聞き洩らすことはない。聖書の神は、神社仏閣に行かなければお会いできないような神ではない。むしろ、どこにでも、私たちがおられるところに、いつでも寄り添ってくださっている。神は遍在であり、神の目に見過ごされる人もない。
3.全能の神
第三に、神は全能である。「あなたが私の内蔵を造り、母の胎の内で私を組みたてられた方です」(13節)。神は私たちを無から生み出したお方である。神は、私たちをこの地上に生まれさせてくれた。私たちがこの世に生まれてくることを、良いこと、喜ばしいこと、素晴らしいことと受け止められた。私たちの存在を歓迎されるお方である。そして「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました」(16節)とあるように、私たちの人生に神の良い目的を思い巡らされた。それはちょうど、親たちが生まれたばかりの我が子を抱き、その将来のよき歩みを、祝福の人生を巡らし願うのと同じであろう。
17節、18節は、リビングバイブルの意訳が面白い。「主よ、あなたが私をかた時も忘れずにいてくださることは、ほんとうにたいせつな事実です。あなたは一日に、数えきれないほど何度も、私のことを思い起こしてくださいます。眠っているときも、朝までずっと、
私のことを考えていてくださるのです。」好きな人のことは、一日の初めに真っ先に、また何度でも思い起こすものだろう。神は、ご自分が生み出した人に、それほどまでに惚れ込んで大事にしてくださるお方である、という。
このように神を知る結果は、神に対する全き信頼と、深い愛である。神を愛する者を愛し、神を憎む者を憎む、共通の仲間と共通の敵を持つことになる。神は私たちの全てを知った上で、私たちを愛してくださるのだから、そのような神は、大事にしたい。いや、手放せない、という思いである。だから、私自身の内に、神を傷つけるもの、悲しませるものがあるのなら、それを教えて欲しい。なぜなら、神から離れたくはないから、ということだろう(23、24節)。真に神を愛する者の告白がそこにある。