詩篇144篇

144篇 主を神とする幸い

おはようございます。あなた方は世にあっては艱難があります、と語ったのはイエスです。確かに、様々な人生の戦いに直面させられている、と思うことはあるものですし、戦いが歳を取ればとるほどに深まることもあるでしょう。しかし主は私たちの善き助け手です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

表題には、「ダビデによる」とあり、七十人訳聖書にも「ゴリヤテに敵する」と加筆されているものがある。しかしこれも、ダビデの詩篇を寄せ集め(18,38篇など)、ダビデ風に詠まれた捕囚期以降の作と考えられている。実際、10節には「ダビデを悪の剣から解き放されます」とあるが、ダビデの名は出てきても、分脈からして過去の解放について回顧しているのは明らかである。また、詩人の敵は「外国人」(7、11節)であるが、ゴリヤテのように武力的な脅威を与える敵ではなく「うそ」「偽り」(8、11節)の脅威を与える敵である。となれば、ダニエルやネヘミヤの苦境を思い出させるような捕囚期かそれ以降の背景で考えることも可能である、というわけだ。

2.人生の戦い

さて1節、「わが岩なる主が、ほめたたえられますように。戦いのために私の手を、戦のために私の指を鍛えられる方が。」この詩篇の一節は、18:34の焼き直しである。18篇はダビデがゴリヤテに勝利した時ではなく、統一王国の王となった時に詠われたものとされる。だからここで詩人は、あのダビデ王ですら、神に備えられ、訓練されて、勝利を掴んだことに注意を向けさせていることになる。神の確かなる守りと愛(2節)、そして人間の低さ(3、4節)が語られることで、より一層深い詩人の主に対する信頼が語られている。

信仰者として生きて行こうものなら、戦いは当然覚悟しなくてはならない。世俗主義、物質主義の世の流れに逆らって生きるのだから、当然人生には衝突があり、困難がある。その覚悟をもって朝毎に、神の恵みを求めるのでなければ、この不条理極まりない社会を乗り超えることはできない。実際は、自分の無力さ、無能さを認めざるを得ないことがあるだろう。ただ神あるゆえに、力ある働きが出来る。だから著者は、詩篇18:9、14節を引用し、次のように祈る。「主よ、あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を上げさせてください。稲妻を放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください。」(6,7節)と。「人事を尽くして天命を待つ」という。信仰者になると「天命を待ちながら人事を尽くす」という態度を持つようになったりする。つまり、99%人事を尽くし、後の1%は、神様の匙加減なのだからと努力していた人が、99%神様の助けによるのだから、1%の努力を添えると考えるようになってしまうのである。しかしそれは間違いである。100%人事を尽くし、努力し、100%神様の助けによって成功した、と考えるのが本当である。私たちは無能でありながらも、100%努力するのだ。

3.私から私たちの祈りへ

後半12節以降は、「私たち」で綴られる。著者は、神の民として、具体的な生活の祝福を祈っている。神が共に闘ってくださると思えばこそ、どんな人生の戦いにも恐れずに臨むことができる。そしてただ自己中心的な自分だけの勝利を願う思いから解放されて、さらに民全体の至福を求める祈りへと導かれる。主の祈りがそうであるように、真実に父なる神を認めるならば、神の家族である教会全体の祝福を祈らざるを得ない。「主をおのれの神とするその民」という自覚は、他者に対する配慮を与えるのである。もちろん神が祝福を約束されても、それは今日明日の事という単純なものではないこともあるだろう。むしろ、幾多もの戦いを通り抜け、危機を乗り越える難しさを持つものである。しかし具体的な祝福を与えてくださる生ける神に期待し、信頼することのできる幸いがある。

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