145篇 主の主権と御業を想起する
おはようございます。神とよき時を過ごすというのは、聖書を読みながら、神の偉大さ、神の恵み深さをあれこれ思い巡らすことでもあります。語り掛ける神の言葉の一つ一つに、神の力と主権を感じていくこと、それが私たちの証となり、礼拝の力となっていくのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
「私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を、世々限りなくほめたたえます」(1節)。この1節に象徴されるよう、この詩編は、神をたたえる歌である。ヘブル語原文では、各行頭がアルファベット順に揃えられた「いろは歌」になっていて、ヘブル語文字ヌーン(N)の行は抜けているが日本語の聖書からそれを知ることはできない(ヘブル語のアルファベットは22文字、1文字抜けて21行となる)。
さて神をたたえることは、私の神であり王である方、その奇しいみわざと主権に思いを潜めるところから生じる(5節)かつてマリヤはエリサベツに会い、自分の人生に対する神の介入とその奇しいわざに思いを潜めて、「私のたましいは主をあがめ、私の霊は、私の救い主である神をたたえます」(ルカ1:46)と神を賛美した。ただ聖書を開き漠然と読んでいても、そこには讃美も感謝も起こらない。しかし、聖書を開き、自分が信じる神の素晴示唆を認める時に、賛美と感謝が起こって来るのだ。
2.主を証しする
そしてさらに証しが生じる。「代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせます」(4節)。「人々はあなたの恐ろしいみわざの力を告げ、私はあなたの偉大さを語ります。人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を、あふれるばかりに語り、あなたの義を高らかに歌いましょう」(6,7節)朝毎に私たちは、神を証する力を与えられる。それは、礼拝に集い、神を認め、神に栄光を帰すたびに、宣教の民として整えられるのと同じである。証へ動機づけられない礼拝は、偽りである。教会は神に心を向け、私たちの思いを越えた神を仰がせる場である。それによって私たちは、神の哀れみといつくしみの深さを覚え、11節「大能のわざを語り、知らせる」者とされていく。大事なのは、宣教は自らの経験を語るものである、ということだ。知らない神を語るのではない、自分の人生に介入された神を語るのだ。あるいは自分の民の歴史に介入された神を語るのだ。となれば伝道は自然になされるものである。自分に神が何をしてくださったかを語ればよいのだ。わざわざ訓練を受けたり、セミナーに出たりして、整えられてするようなものではない。
3.終末的ビジョンを抱く
さて詩人は、神が、人に多くの点で関わる存在であることを告白する。「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます」(14節)。主は無力な者の支え手である。また、「主は時にかなって、彼らに食物を与えられます」(15節)。つまり、神は悪い者にも良い者にも心を配る、気前のよい供給者である。そして神は、ご自身を呼び求める者と親密な関係を持たれる(18節)。聖徒を特別に扱い、主を恐れる者、主を愛する者を守られる。神は、ご自身と共に生きようとする者に配慮してくださるお方である。このように、神が私たちの生活にどのように関わってくださっているかを種々の面から思いめぐらすならば、朝毎に、また礼拝毎に、神に対する感謝と讃美、そして証する思いに満たされる。
21節「すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように」、それは、終末的礼拝のビジョンへと私たちの思いを広げる(黙示録7:9)。神の主権を覚え、その奇しいわざに思いを潜めることは、宣教への動機づけを与え、さらに主にあって集められる天上の礼拝の幻へと心を向ける。その幻の成ることを願いつつ、今日も、主の主権とみ業に思いを潜めて歩ませていただこう。