詩篇149篇

149篇 主をほめたたえる

おはようございます。人の心には自然に人を妬み、憎み、敵対視し、争いごとを好む習慣が形作られているものです。主をほめたたえ、愛する心の習慣は、意識されるべきものでしょう。それが私たちの罪人の心を変えていく力にもなるからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

今日も神をたたえることの勧めである。ちょうど、毎日変わらぬご飯とみそ汁を食べながら、飽きもせず、そのよい味わいを楽しむように、三度の食事と同じ心の習慣が必要である。つまり目に見えない神を認め、その至高なる神の前に遜り、主をほめたたえる習慣である。

1節、主に新しい歌を歌え、主への賛美をささげよ、と語る著者は、「造り主」(2節)であり、「王」(2節)であり、「救い主」(4節)である神を見上げている。「造り主」「王」「救い主」この三つが、賛美をささげるべきお方の中核的なイメージである。神はこの天地万物を造り、支配し、また、私たちを罪の滅びの中から救い出してくださった。その方をほめたたえる。昨日は、誰と、つまりすべての造られたものとともに。天と地のあらゆるものと共に、ということであったが、今日は、どのように、つまり、「踊りをもって、主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて、主にほめ歌を歌え」とされる。

2.主をほめたたえる

以前、アフリカン・アメリカンの方々が集まる礼拝に出席したことがある。礼拝が、最初から最後まで、身体が揺すぶられるようなリズムと賛美で進められていたことを思い出す。造られ、練習を重ねた踊りではなく、自然に体から溢れだす、側にいるとこちらの身体も共鳴する、そんな雰囲気であった。喜びや感謝があるがままに全身で現わされていた。どちらかと言えば、私は静的な礼拝を好み、静寂の中に満たしを求める方なのだが、このような形もまた素晴らしいものだ、と思わされた。主をほめたたえるあり方の豊かさがある。

そして主をほめたたえることは、聖所、会堂のみならず、自らの家庭でもなされることである。5節「床の上」とある。新共同訳では「伏していても」である。原語はミシュカーブ、床、寝室、と訳されることばであるが、単に夜寝る前に「床の上で」という意味ではないようだ。つまり、前の「貧しい者たちを救いをもって装われる」とあるように「伏していても」つまり虐げられる状況にあっても、ということなのかもしれない。となれば、具体的な場所よりも、いついかなる状況においても、それはどん底においても、ということでもある。

3.主の働きの確実さ

後半、6節「両刃の剣があるように」7節「復讐し、国民を懲らしめるため」8節「彼らの王たちを鎖に、~貴族たちを鉄のかせにつなぐため」9節「さばきを~彼らの間で行うため」とある。これらの目的が、神をほめたたえることとどのようにつながるのか。4節が鍵となる聖句なのだろう。神はご自分の民を愛し、貧しい者たちを、救いをもって装われる。神は力と共にあるのではない、貧しさ、弱さと共にいる。神は、打算的なお方ではない。誠実な愛に満ちたお方である。その神が、世の通常の感覚であれば起こりえない救いを、成し遂げてくださるのだ。世であれば相手にされず、見捨てられ、忘れ去られてしまうところが、そのような者たちを探し出し、見出し、救いあげてくれることが起こる。神のこの世に対する支配は明らかであり(6節)、また、神の裁きも決して空文ではない(7-8節)。それは確かなこと、現実的なことである。

だから、神を恐れ、神の御前に敬虔に歩む時に、そこには必ず、主への賛美がある。たとえ、主の御前に望みなく呻くことがあっても、主は生きておられる、と主をほめたたえることが、必ず起こりうる。主を信じることである。主を期待することである。そして主をほめたたえることである。

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