詩篇148篇

148篇 被造物を含めた終末的礼拝

おはようございます。聖書が語る救いの完成は、人間のたましいに関することのみならず、被造物全体の回復も含めてのことです。となれば当然クリスチャンには、自然環境に対する心遣いとその保全の実践も生じることでしょう。信仰と実践の合一を心掛けたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

神をたたえる賛美は、詩篇146篇からの続きである。この詩において著者は、天と地に神を賛美するように呼びかける。イスラエルの民にではない。というのも礼拝者への呼びかけは、すでに詩篇146,147篇にてなされている。著者はさらに天と地に呼び掛け、被造物と一体になり、神に賛美をささげようとしている。

まさにこれは、究極の救いの完成形である。というのも、パウロはローマ書の中で「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」(ローマ8:21)と語っている。つまり主にある救いを待ち望んでいるのは、人間ばかりではない。被造物のすべても「今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをして」(ローマ8:22)いるのである。その被造物が回復され、人間と共に神を褒め称え、神を礼拝する、これは、万物の贖いの最終的な姿であり、壮大な神の救いの完成を意味するのだ。

2.天も地も主をたたえよ

すべての御使い(2節)から始まり、日、月、輝く星、天とともに、神を拝する(1-6節)。また、地に向かって、海の巨獣、淵、火、雹、雪、煙、あらし、山々、丘、木、鳥(7-10節)、そして、まだ神を呼び求めようとしない、地の王たち、国民、君主たち、若い男、女、年老いた者、幼い者(11-13節)、へと主をほめたたえる呼びかけがなされる。聖書の救いは、単なる人間の救いだけを意味しない。神の御手によって造られたすべての被造物の救いを含む。そうであればこそ、このような詩によって、キリスト者の心には、環境問題への敏感さも養われていくはずなのである。神に被造物の管理を託され、被造物全体を含めた贖いの完成を願う思いがあるならば、資源問題、環境問題への心遣いがあり、責任ある態度や行動も、起こりうるだろう。

3.被造物と共に礼拝する

礼拝は小さな会堂の中だけのことではない。それは、物理的な空間を突き抜けて、教派・教団を超えた、地上のすべての教会が集められた、いわば、目に見えない教会、普遍的教会に連なる営みである。しかしここで語られているのは、被造物すべてと共鳴する礼拝である。

しばしば野外礼拝をする教会も多いことだろう。それは、レクリエーション的な意味でなされる場合が多い。会堂を出て、自然の中にあって神を賛美し、神の御声を聞く、つまり気分転換に礼拝の場所を変える程度の意識でなされたりする。しかし、聖書的には、自然と共に神を賛美し、ひれ伏す礼拝が求められている。それは、自然の中で行われることにより、普段は意識できない詩篇148篇的礼拝、すなわち、天と地にある被造物と一体の礼拝を実現する行為なのである。

14節。「角」が何を示しているのかは明らかではない。ただ分脈的には、捕囚帰還によってイスラエルの立場を回復させられたことを意味するのだろうが、終末的な視点からすれば、それは、救い主(ルカ1:69)が起こされることを思わせる。イスラエルの子らには、賛美するように求められていない。それは、イスラエルの子らにとって、主への賛美は当然のことだからなのだろう。主の民にあっては、賛美は天性である。

ともあれ、天と地を満たすあらゆる被造物と共に、そして、地上のあらゆる諸国民、民族、諸言語を持つ者が皆、共に主に向かって賛美し、礼拝をささげる日が待ち望まれる。黙示録に描かれた究極の礼拝のイメージが(7:9)思い出される詩篇である。

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