【シーズン6】レビ記24章 御名を冒涜する罪と罰【聖書】人生100倍の祝福

 レビ記24章では、主に二つのテーマが語られています。一つは神を「光」や「パン」で象徴する話、そしてもう一つは、神の名を汚すことの重大さです。難しそうですが、一緒に見ていきましょう。
1.祭司の聖所に関する働き(24:1-9)
まず、祭司が行う大事な仕事として、「灯火を絶やさない」ことが挙げられています(1-4節)。当時使われたオリーブ油には数種類あり、灯火用のものは、純粋なオリーブ油を絞ることによって得られました。その油を主の前に夕方から朝まで、つまり夜通し灯し続けるのです。それは、常夜灯のように、暗い宿営を照らし続けたと思われますが、まさに、神が私たちと共にいることを象徴するものでした。
実際聖書は、純金のきよい燭台は主なる神の臨在(ゼカ4:2、11)、教会(黙1:12-13)、忠実な証人(黙11:4)の象徴とされています。キリスト者もキリストの救いを指し示す光であるとされます(マタイ5:14)。しかしそれは、神の臨在あってこその証です。
 次に登場するのがパンです(5-9節)。12個の輪型のパンを主に供えるのです。パンの厚さ約1.2センチ、指一本分の厚さです。長さは約70センチ、幅は約31センチと大きいものです。それは主の前のきよい机の上に置かれました。机の大きさは、幅約90センチ、奥行約45センチなので、棚のようなものが付属していて、鏡餅のように6枚重ねるように二列に置かれたのでしょう。
これを毎週安息日ごとに用意し、古いパンは、祭司だけが食べるものでした。これもただのパンではなかったからです。12という数字はイスラエルの12部族を象徴しています。このパンは、神が、イスラエル全体を養い続ける約束の象徴です。興味深いのは、新約聖書でもパンが登場し、イエスが「命のパン」として自らを表現したところです。つまり過去から未来にかけて、神は、永遠に人を養われる象徴がつながっているのです。
2.御名を冒涜する罪(24:10-23)
さて、問題の事件が起こります。シェロミテという人の息子が神の名をののしりました。これは非常に重い事件として受け止められました。というのも、イスラエルでは、名は体を表すというように、神の名を汚すことは、神の存在そのものを否定する行為だったからです。
神をののしった場合、それは十戒の第三戒を侵すことであり、その償いは死でした。事前に計画された殺人行為と同等で、極刑の死に値すると考えられたのです。
 20節「目には目、歯には歯」いわゆる同害報復の教えです。一般に、同じ程度の報復が許されていることを教えると考えられていますが、そうではありません。聖書がこの考え方で強調しているのは、単純に報復を正当化せず、正しいさばきを優先することです。
「倍返し」ということばが流行ったこともありますが、人の報復は、往々にしてエスカレートします。そこにあるのは、憎しみであって正義ではありません。ですから後にイエスは、この教えを取り上げて、「目には目を、歯には歯を」と聞いているだろうが、「悪い者には手向かってはいけない。右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」と語っています(マタイ5:38-48)。つまり、報復や罰を語るところに正義はない、もし正義がありうるとしたら、報復を超えた愛に立つ以外にないと言っているのです。争い事を止めるには、親のような大きな愛の心が必要です。それは、まさに、イエスの十字架にある愛に立つ以外にないのです。
 ただ注目すべきは、このことばが、神の裁きのことばの文脈の中にあることです。イスラエルの民は、シェロミテの息子の処罰をどうすべきか悩みました。そして神の裁きを待ちました。神が語られたことは、神の御名を汚すことは、神の存在を否定することで、人間や動物を殺めること同じなのです。つまり、神はいると思えばいる、いないと思えばいないという象徴的な存在ではなく、実在するということです。厳しい罰は、神の報復ではなく、神を否定したことへの正しい裁きであった、ということです。
神の存在を意識して生きることは、単なる抽象的な考えではありません。それは現実的なこと、実際の日々の生活の中で、言葉や行動を持って表されていくことです。これがレビ記24章の大切なメッセージです。神の御名を唱えながら、実質、神を否定しているような信仰とならないように、いわゆる宗教をやっている人とならないような歩み方をしたいものです。あなたとあなたの所属する教会に神の祝福がありますように。ではまた明日、このチャンネルでお会いしましょう。

Leviticus 24: A Story of Light, Bread, and Honor
Let’s step back to ancient Israel. Imagine a quiet camp, illuminated by the steady glow of lamps fueled by pure olive oil. These lamps never go out, not even through the dark hours of night. Why? Because their light represents something profound—God’s presence, always there, never wavering. To the Israelites, this wasn’t just about keeping a flame burning. It was a daily reminder that God was with them, guiding, watching, and protecting.
Then, there was the bread—12 round loaves, one for each tribe of Israel. Every week, these loaves were carefully arranged on a holy table in God’s sanctuary, much like setting the family table for an honored guest. The bread wasn’t ordinary; it symbolized God’s provision for His people. Just as families are nourished by their meals, the Israelites were spiritually and physically sustained by God’s hand.
Fast forward to the time of Jesus. Bread takes on a new meaning. Jesus breaks bread with His disciples and calls Himself the “Bread of Life,” feeding not just bodies, but souls. The simple act of making and sharing bread was transformed into a symbol of God’s eternal care and a new covenant.
But Leviticus 24 doesn’t stop at symbols of light and bread. It also gives us a story—one that feels harsh but carries an important lesson. A man—angry, perhaps careless—curses God’s name. In ancient Israel, names held deep significance. To curse God’s name wasn’t just disrespectful; it was an act of defiance against the Creator. It shook the very foundation of their relationship with God.
The punishment seems severe—death. But this wasn’t about vengeance. It was a stark reminder of the seriousness of honoring God and the sacredness of His name. The community turned to God for the verdict, demonstrating humility and dependence on divine justice.
Now, let’s bring it to today. We don’t live in ancient Israel, but the principles remain. When we hear “an eye for an eye,” our minds jump to retaliation. But that’s not what the text intended. It was meant to limit revenge, to keep justice fair and measured. And when Jesus taught, He turned this even further. He spoke of forgiveness, of turning the other cheek, of replacing cycles of revenge with acts of unexpected grace.
Leviticus 24 challenges us to think about how we live. Do we reflect God’s light? Do we remember His provision? And do we honor Him—not just in words but in how we act? It’s not about ancient bread or lamps; it’s about being symbols of God’s presence and love in the world. It’s about living in a way that makes God’s name known—and revered—through our daily lives.

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