レビ記1章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、今日からレビ記に入ります。創世記も出エジプト記も、レビ記もみなつながっています。個々に読んでいませんか?今日から学ぶレビ記は、創世記、出エジプト記の土台の上に、語られるものです。そして聖書の深みを理解する最も重要な書です。しっかり読んでまいりましょう。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

創世記において一番大切なのは、創世記12章を軸に展開する終末史的ビジョンを読み解くことである。つまり、そこには、罪と堕落によって裁きを受け散らされた人類(11章)が、アブラハムとその子孫の選びと働きにより一つとされる終末に向かう神のご計画が語られている。出エジプト記は、具体的にイスラエルの民の選びが描かれている。彼らは、贖罪(血による罪の赦し)によって選ばれた(12章)、そして、神の戒めを与えられ(19,20章)、礼拝する民とされる(25章以降)。すなわち、創世記に描かれた終末史的ビジョンは、神を礼拝する民の証しによって達成されるのだ。レビ記は、出エジプト記において、物語的に語られた「罪の赦し」「神の民のきよめ」「礼拝」という重要な考え方を、神学的、論理的に深く解き明かす書である。実際、レビ記は出エジプト記と連続している。出エジプト24:16で神はモーセを「呼ばれ」幕屋建設の詳細を告げ、その準備が終わり、聖所が設けられると、再び神はモーセを「呼び寄せ」(レビ1:1)、個々のいけにえに関する規定を与え、神の民がささげるべき礼拝のあり方を教え導いているのである。
1.全焼のささげ物の種類
そこで1章、まず「全焼のささげもの(=なだめのかおりの火によるささげ物)」の規定が語られる。ささげ物は、その経済状況によって異なっていてもよく、豊かな者は牛を、貧しい者は鳥をささげたが、いずれにせよ、全く傷のないものでなければならなかった。だから、肉食獣は除外され、清い獣や家畜に限定された。そして、このささげ物は、祭壇の上で、それらを全て焼き尽くし煙にするのが特徴であった。
2.全焼のささげ物の手順
 だからささげ物をささげる手順に注目し、その意味をよく理解しなくてはならない。まず焼き尽くすささげ物となる動物は幕屋の入口に引いていかれなくてはならなかった(奉納)。次に按手がなされる(4節)。それは、動物の頭の上に手を置く行為であるが、それによってその動物に、私たちに下される神の刑罰の義務が移行したことを意味した。ささげられる動物は、まさに私たちの身代わりとなって焼き尽くされるのである。だから第三に、いけにえは屠殺される(5節)のであるが、それは、神の怒りの刑罰が、身代わりの動物を通して私たちに下されたことを意味する。ささげられた動物と私たちは一体で、私たち自身が神の刑罰を受けて死んだことになるのである。パウロは、イエスの身代わりの死について、「私はキリストとともに十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)と語っているのはそのことである。イエスの十字架は私たちの罪の赦しのための身代わりの死であるが、それによって私たちも神に裁かれたのである。私たちも古い自分に死んでいる。
第四に、祭壇の周囲に血を注ぎかける(5節)。祭壇は神の臨在の象徴である。だからそこに血を注ぐことは、自らの死と贖いを確認する行為である。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」とヘブルの著者は語った(9:22)が、それは神との確実な契約に基づく行為なのである。そして最後にいけにえが焼却される(6-9節)。火は神の怒りの火、焼きつくす火である。そして同時に浄化の火を示している。しかしそれらの火によって、いけにえは最終的には、宥めの香りの火によるささげ物となる。主を喜ばせることが最終目的である。この全焼のささげ物は、すべてのささげ物の基本となった。
3.全焼のささげ物の意味
全焼のささげ物について三度繰り返されることばに注目したい。「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)がそれである。神に崇敬の念を示すために、ささげ物において神に食物が提供されるというのが古代異邦人の考え方であった。しかし、イスラエルにおける主への食物は、そのような物質的な必要を満たす意味はない(詩篇50:8-15)。それはあくまでも霊的な意味であって、食物は契約の神への感謝、忠実さ、また信頼を象徴している。神が私たちに献げるように期待しているささげ物は、まさに私たちの感謝、忠実、信頼、そして神に対する愛なのである。私たちにとって食物が不可欠なように、神にとって霊的な食物、つまり私たちの全き献身が不可欠のものである。しかしながら、レビ記において最も理解するべきことは、私たちが全き献身をささげるのではなくて、私たちの代わりに全き献身が既に献げられたことである(ヨハネ1:29)。私たち罪人の自己献身はいかなる献身であろうとも不完全さを免れ得ない。完全な献身は、永遠の御子が罪人の身代わりとなり、ゴルゴダの丘においてご自身を献げた自己犠牲以外にありえない(マタイ26:28)。御子の十字架の死に至るまでの、御父に対する完全な愛と服従が、主への食物であり、香ばしい香り、すなわち喜ばしく、受納される宥めであったのである(4節、ヨハネ17:19、エペソ5:2)。
だからパウロは、キリスト者に、自分自身を神に献げて歩むように勧めているが(ローマ12:1)、それは、キリストの十字架の犠牲を神が受け入れられたことが前提となっている。つまりキリストの故に私たちは、受け入れられており、神に近づいて自分自身を献げる歩みが許されているのである。こうして全焼のささげ物をささげることは、神に献身を示す、神に対する愛の行為というよりも、完全な犠牲によって神に愛されていることを確認し、自らをキリストに倣って神のものとされることを願う行為と理解されるのである。
ペテロは語った。「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(1ペテロ2:5)。私たちは、キリストにあって既に自分自身を神にささげ、受け入れられている。ならば、受け入れられている者としてさらに自分自身をささげて生きていくことが、期待されていることである。神は物がささげられて喜ぶお方ではない。私たちが、キリストの十字架を覚え、遜り、この方にあって新しいいのちと神との関係があることを覚え、感謝と、忠実さと、信頼を益々深めるように神を仰ぐことこそが、神の喜びとされる食物となるのである。今日も神の恵みとキリストのとりなしに守られてある事を覚え、神にささげた歩みをさせていただこう。

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