創世記20章

創世記20章 アブラハムの失敗
1. アブラハムの嘘(20:1- 13)
アブラハムの同じような失態が、再び記録されています。この種の過ちが繰り返されるのは、おかしいというので、この個所を12:10の重複であると理解する者もいます。しかし、この種の過ちを繰り返す、当時の状況もあったと考えることも可能でしょう。つまりアビメレクが、アブラハムを呼び寄せて問いかけた際に、アブラハムは自分の動機について釈明し、サラが妹であることを強調しています。当時のヌジ文書の研究によると、フルリ人社会に特有な制度として妻妹制というものがあったと言います。これは一般に上流社会で行われた制度で、妻であると同時に、妹であるという二重の立場を与え、普通の妻の場合よりも、有利な特権と保護を認めたと言うのです。何のためにそのような制度が設けられていたのか、よくわからない部分もありますが、アブラハムは、この制度をうまく利用しながら、旅の途上で起こる危険をうまく回避したというわけです。となると、この手の出来事は、繰り返えされてもおかしくないものであったことでしょう。
しかしたとえそうであったとしても、アブラハムに人を恐れる気持ちがあって、偽ってしまったというのは事実でした。そしてその弱さと罪のゆえに、人を余計なトラブルに巻き込んでしまったわけです。アブラハムは一部族長でしたが、遥かに力を持った一国の王に目をつけられ、妻を召し抱えられるという危機的な状況に追い込まれました。本来ならば全能の神を信じるアブラハムですから、その確信のもと別の行動を取りうることも可能であったとは思いますが、またしても現実の壁の大きさに、主の御名を呼び求めるよりも、自分の命を守るために嘘をつく行動に出ざるを得なかった、というわけでしょう。
神にすべてを委ねて楽観的に生きるなど、そうそう易々できることではありません。やはり、何を失っても私は大丈夫、主が取り戻してくださるはずだと腹を括れるようになるには、相当信仰的に練られていなくてはできない、というところではないでしょうか。幸いなのは、神はそのように私たちが練られること、つまり失敗を重ねることを許しておられる、ということです。神の恵みによって成長することです。
2.アブラハムのとりなし(20:14-18)
さてこの物語は単なる第二の失敗物語ではありません。もう一度先の12章の出来事と比べてみると興味深いことに気づかされます。というのも、12章では、事件が記録されているだけですが、二度目のこの事件では、アビメレクの弁明が許され、さらにアブラハムのとりなしの祈りが記録されています。
神はアビメレクの正しさを認めておられます。アビメレクが神を信じていないからといって、アビメレクの正しさを踏みにじっておられない、大事な点です。神を信じないからといって、なすことすることすべて罪、悪、とはしないのです。(6節)。神はアブラハムを選ばれても特別扱いはしませんでした。神は、ご自身を信じる者にもそうでない者にも、正しいことをなさるのです。
 さらに神はアブラハムの失敗は失敗として、むしろ、アブラハムが正しいことをするように励ましておられることに注目しましょう。アブラハムは、全くもって不完全な人間で、罪を犯し、他人をも罪に巻き込むような者でしたが、それでも神は、アブラハムに罪人の回復のために祈ることを求められました。しばしばキリスト者の中には、他人のためにとりなしの祈りをすること、また神の言葉を伝えること、いわゆる宣教的な働きは、それなりの人、ある程度の域に達した人がすべきこと、牧師・伝道師と呼ばれる信仰的にも立派な人がすべきと考えていることがあります。しかしそうではありません。まさに、罪人の弱さの中にあり、信仰の歩みを成長させていく途上にある不完全なキリスト者を、神は用いられるのです。アブラハムは、信仰の歩みの初めに、祝福の源になると神に言われましたが、まさにその信仰の途上で祝福の源になるにふさわしい行動を期待されたのです。私たちが、アブラハム同様に、祝福の源となるべく選ばれた者なら、私たちも同じようにすべきでしょう。神が私たちを選んだのは、私たちに何か見どころがある、何か立派な光るものがある、ということではなく、まさに恵みの故です。そして、恵みによって、神の養いを受け、選ばれた者に相応しい者となっていくのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「死海は、旧約聖書では、他にどのような名前で呼ばれているでしょうか?間違っているものを一つあげなさい。①アラバの海、②キネレテの海、③東の海、どれでしょうか。」答えは、キネレテの海です。死海は、旧約聖書では他に「アラバの海(申命3:17等)」「東の海(エゼキエル47:18等)」と呼ばれています。キネレテの海は、ガリラヤ湖のことです。では、今日の聖書クイズを一つ。ゲラルは、ガリラヤ地方、サマリヤ地方、ユダヤ地方の内、どの地方にあった町でしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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