詩篇5篇

5篇 確かな守り

<要約>

おはようございます。ダビデの祈りを、自分の祈りとして祈る、そこに、私たちのスマートな日常があると言えるでしょう。私たちはとかく、ぶつぶつ呟き、神に毒づく、不敬虔さに陥ってしまいやすいものです。罪はなによりも、神に対する不適切な態度と言わなければなりません。神を神として崇め、神の誠実さを認め、神が正しいことをなさるように祈る、その態度こそ求められるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神を呼び求める

この詩編が書かれた時代背景は種々異論のあるところであるが、表題のとおりダビデの作と考えるならば、サウルに敵視されていた時代に書かれたものなのだろう。

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください」朝の詩編と言われる。ダビデはまず、主を覚えて、呼び求める所から始め、率直に神が自分の声の叫びに耳を傾けてくださるように、と願っている。「私の叫ぶ声を聞いてください。私の王、私の神よ、私はあなたに祈っているのです」目が覚めると、心が叫んでいる。神よと心から滲むように、神に向かって叫んでいるのである。その辛さいかばかりか。

正しい者が、正しいことのゆえに報いられない。むしろ踏みにじられていく。そして、悪しき者が、その悪さとは関わりなく、栄えていく。その社会的矛盾に人の心は疲れ果ててしまうことがある。

2.神は悪を喜ぶ神ではない

ダビデは、神との関係においてその原則を確認している。神は悪を喜ぶ神ではない。私たちの神は正しいことを行われる(4節)。誇り高ぶる者、不法を行う者、偽りを言う者、人の血を流す者、欺く者を退けられる。これは、ヨブと三人の友人との議論の中で、繰り返し語られてきた原則でもある。だが、現実は、この原則が崩れているように思えることばかり、ということがあるものだ。神がサタンに、ヨブの試練を許されたように、私たちにも同じ試練を与えていると思うことが。既に学んだように、そのような時に、どうすべきか。それは、この神の原則に対する揺るぎない信頼を持つことである。ぶつぶつ、神に毒づくのではなく、ただひたすら、神の善であることを信じ、神に裁きを委ねることである。

3.あなたの道をまっすぐにしてください

7節、ダビデが、祈りの場を「聖なる宮」にしていることに注意したい。この時、神の箱は、まだ天幕の中にあったとされるが(2サムエル7:2)シロの時代(1サムエル1:7)に、それはもう、そのような呼び方がなされるようになっていた、と考えてよいのだろう。ダビデは、天幕、あるいは聖なる宮と呼ばれるところで、主を呼び求めた。というのも、神はまさに、「その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。」と約束されているからである(出エジプト29:42)。ダビデは徹底して、神の誠実さに期待した。

そのような意味において、私たちも同じような状況にあっては、毒を吐くことなく、素直に、ダビデの言葉を自分のことばとしてこう祈らねばならない。「私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」(8節)。必要なのは、まっすぐな道である。落とし穴のない、躓きのない、険しさのない平坦でなだらかな道である。しかし、ダビデの人生がそうであったように、人の人生には、落とし穴や躓き、そして足を疲れさせる険しさが多いものだ。だが、人には「主よ、私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」と祈ることが許されている。ガタガタの道、つまずきよろめき、この先進めそうもない道を前に、あなたが備えられるまっすぐな道を進ませてください、と祈ることである。そのように祈る時に人生の流れに変化が起こると期待してよい。

3.神のみこころがなされるように

ダビデは、敵対的な環境に置かれていることを覚えながら、彼らの罪こそがはっきりとさせられ、「彼らがおのれのはかりごとで倒れるように」「彼らが追い散らされるように」(10節)と祈っている。実際にダビデは「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(2サムエル15:31)と祈り、その祈りは、ダビデの期待通りの結果を得た。ただ注意すべきは、この祈りは、決してダビデの個人的な動機で祈られたものではないことだ。ダビデは言う。「彼らはあなたに逆らっているからです」(10節)。ダビデは、自分の身に起こった反逆が、自分自身ではなく、神の御心に逆らうものと捉えた。というのも、ダビデの王権に対するクーデターは、ダビデを王としてくださった方への反逆に他ならなかったからである。神の正義を求める祈りであるからこそ、その祈りはかなえられるものとなった。

だからダビデは続けて言う。「あなたに身を避ける者がみな喜び」「御名を愛する者たちがあなたを誇りますように」(11節)。祈りが応答を得る時、それは、自分一人の喜びとはならない。神の正義を喜びとし、誇りとしている多くの神の民と共に、それは喜びとされる結果となる。正しい者が揺るがされることはない。敵対者が悪意の包囲網を敷くことがあっても、神もまた大盾で囲むように愛で私たちを囲まれるからである。

 

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