詩篇85篇

85篇 主の足跡を道として
おはようございます。どのような背景で詠まれたのか、特定しにくいものがあります。しかし、大切なのは、詩人が明確な神観を持って、その神に訴えていることです。ただ漠然と神様に何とかしてくれ、と祈っているわけではありません。詩人のロジックに立って同じように祈りたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.背景
 「主よ、あなたは自分の地に恵みを施し、ヤコブを元どおりにされます」1節後半のことばから、この詩篇は、ユダヤ人がバビロン捕囚から帰って来た時に作られた、と考えられてきた。祖国エルサレム再建の意欲に燃えていた彼らが、いざエルサレムに到着し、再建に着手してみると、それはあまりにも困難で、見通しのつかないものであった。そのような背景においてこの詩篇は詠まれた、というわけである。
 ただ、繰り返されることばがある。1節「地に恵みを施し」、9節「栄光が私たちの地にとどまるためです」11節「まことは地から生え出で」、12節「大地は産物を生み出します」つまり、詩人が気にかけているのは「地」の状態である。ということから、明らかに神の裁きとして起こった飢饉において、大きな痛手を被ったと考えた詩人が、その飢饉からの回復を願う祈りを詩とした、と考えられてもいる。
2.救いの祈り
 1から3節は、詩人の信仰なのか、それとも彼の経験なのか、よくわからない。ただ注目されるべきは、彼がはっきりとした神観をもって祈っていることだ。神は、繁栄を取り戻してくださるお方(1節)。神は、いっさいを水に流してくださるお方(2節)。神はいつまでも怒ってはおられない、すべてを忘れ去ってくださるお方(3節)。詩人は、自分が向かい合っている方を理解している。その上で、救いを願い求めている。だから彼の祈りも、その神観に沿った祈りとなっている。
 まず彼は祈る4節御怒りをやめてください、と。3節に対応するところである。彼は、神はいつまでも怒ってはおられないと告白しつつ、だらだら神に怒りをぶつけられている状況を感じている(5節)。
 次に6節「生かしてくださらないのですか」というのは「生かしてください」ということだろう。神は、私たちの罪を赦してくださるはずなのに、いつまでも後ろ指を指し、義の目を光らせている、と感じるような状況。神よあなたはそういうお方ではないはず、というわけだ。十字架での裏切りにもかかわらず、「平安があるように」、と現れてくださった復活のイエスのように、神が愛と、あわれみに満ちた対応をしてくださるように。そうすれば、人は神を恐れ、神にある希望も堅くされる。
最後に、10から13節、神が再び繁栄を取り戻してくださることへの期待が、1節への対応として告白されている。そこでまず「めぐみと義」は神に属すること、「まことと平和」は人に関わることと考えてみてはどうか。まことなる姿勢は、そしてまことなる者への平和は、天から下される神のめぐみと義によって成り立つのである。神が恵み深く、良いものをくださるから、地はまことをもって応答する(12節)、というわけだ。そして義は、主の前にも主の後にもある、つまり神が義の道からそれない義しいお方である、からこそ、救いの希望は尽きないのである。
人生には、神の怒りを感じる時、神の裁きを受けたと思われることがある。困難で見通しつかない人生に立たされることがある。しかし、神は義しいお方であり、義しいことをなさると信頼できるならば、罪を悔い改め、その神の義さに訴えて、罪がおおわれ、燃える怒りが留められ、繁栄が回復されることを願うことは間違っていない。回復を祈ろう。

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