1サムエル記2章

2章 ハンナの祈り、よこしまなエリの息子
<要約>
おはようございます。ハンナとエリ、サムエルと、ホフニとピネハスが対比されるところです。またマリヤの賛歌の元となったハンナの賛美に、私たちの心は力づけられます。善意と大能に満ちた神の摂理的支配を信じるならば、何を悩むところがあるでしょうか。主を信じましょう。決して、主は人に借りを作らないお方です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ハンナの歌を巡る議論
 ハンナの歌は、ことに10節、イスラエルの王が存在する前に、「ご自分の王」について触れている点において、ハンナの創作であることが否定されてきた。つまり、ハンナの時代からから500年後、捕囚帰還の時代以降(第二神殿時代)の編集者がハンナのことばとして造った作品であると考えられているのである。
 しかし、ハンナの歌が古い時代のハンナの創作であろうことは、以下の諸点からも考えられることである。
 ①モーセの歌(申命記32:31,37)に置けるのと同じく、神を岩、あるいは「山」と呼ぶ
 ②詩の並行箇所において、類語ではなく、同一語の繰り返しが見られる(1,6節の「主」など)
 ③問題の10節は、ハンナの預言的洞察である。実際に、王に対する必要性は、既にモーセの時代に表明されていた(申命17:14)のであり、ハンナが、自分の息子の働きによって王朝時代が幕開けようとしていること預言的に語ったと理解しうる。
2.ハンナの主への賛美
では、ハンナの歌の内容を見てみよう。ハンナはまず主を賛美する「あなたに並ぶ者はないからです」(2節)、このような主の前に、人は遜らなければならない(3節)。私たちの神は、有を無とされるお方、逆に無を有とされるお方である。主に一切の権威が与えられている、この事実をハンナは認め歌い上げている。神はこの世界の摂理的成り行きを支配しており、善意に満ちた大能のお方である。この信仰に立つならば、ハンナのような「不妊の女」にも絶望はない。どうにもならない、と諦めるほどに決定的な成り行きになったとしても、可能性はある。主は「あくた」(8節)つまりは、町の外のゴミ捨て場に捨て去られるほどに困窮し、苦しみ、望みを失ったような者に栄誉ある地位を取り戻してくださる。たとえ「よみ」に下されたとしても、その死の領域から生へと連れ戻すことができるお方である。そしてどんなに固定されたと思われるような状況があろうともそれで終わることはない。主はそれをひっくり返すことができるお方である。そうであれば、自暴自棄にならずに主を深く信頼し、淡々とすべきことをしていくことが肝心だろう。主は勝利を与えてくださる。
 後にこのハンナの賛美は、マリヤの賛歌の模範となった(ルカ1:46-55)。そこには、時代を超えて、イスラエルの卑しい女に現わされた神のあわれみに対する同じ賛嘆の心が共有されている。
つまりハンナの祈りは、万人の祈りの型となるべきもので、実際ハンナは、個人の思いを越えて、弱き者、貧しい者の祈りと自分の祈りを重ねている。「主は聖徒たちの足を守られます」(9節)と他の信仰者への心遣いを持って祈っている。ハンナにとって、主はすべての者の主である。だから自身の経験は、同じような必要を抱えた他の人々のとりなしのために拡大されてゆく。子どもは、自分のことだけを祈るものだろう。しかし、大人になると、人と分かち合う心が出てくる。祈り手も成熟するならば、互いに祈りの経験を分かち合い、互いにとりなす思いへと押し出されていく。
10節は、既に述べたように預言的である。そういう意味で、私たちの祈りもまたしばしば預言的である。祈ったとおりに導かれていることがある。神は私たちの祈りを聞いているからだ。
2.エリの家族の物語
 さて、エリは非常に優秀な祭司であったが、子育てに失敗した。エリにはホフニとピネハスという二人の子どもがいた。12節を見ると、彼らは祭司の子どもであるにもかかわらず「よこしまな者たちで、主を知らなかった」。それで、彼らは、いけにえを献げているときに、三又の肉刺しで、肉を取り上げたという。これは行儀が悪いという以上に、聖なる儀式を卑しめる行為であった。いけにえの脂肪は主への献げものとして焼き尽くさなければならないが、食糧として分け与えられる部分もあった。しかしそのように正当に許されたものでは満足できず、暴力的に自由に選ぶことを強要した。そんな不遜な態度をとれたのは、まさに彼らが神を知らず、神を礼拝する心がなかったからである。だからさらに彼らは、宮に仕えている女性たちと寝るほど愚かであった。
エリが父親として彼らに行為を改めるように諭している。エリは決して養育を放棄したわけではない。よこしまな息子が神を覚え、神を信頼するように育てようとしている。彼は確かに親として、息子に言うべきことを語っている。しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった(25節)。これが一面である。だが預言者による神の評価は厳しい。「あなたは私よりも自分の息子たちを重んじた」(29節)と言う。神への冒涜を続けることを許した父親の責任を神は問われている。確かに難しい子育てはある。しかしそこに神の恵みを仰ぎ、神の業がなされるように心を砕き続けることが親の務めである。諦めてはならない。もちろん、自ら積極的に滅びを選び取ろうとする者を神は留めることができない。神の救いを拒むものを神は救い出すことはできない。しかし十字架にある罪の赦しの故に、神の大いなるあわれみを信じ祈り続け、期待し続けることは、真の信仰者としてなすべき務めであろう。
36節、エリの子孫についての預言は、ハンナが歌った逆転劇を認めている。最上のもので身を肥やした者が、パンのために雇われる逆転が起こる。たとえ貧しい者であれ、神を信じ、神に寄りすがる者こそ、幸いである。

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