1サムエル記3章

3章 しもべは聞きます
 <要約>
おはようございます。少年サムエルが成長し、神のことばを自ら聞くようになる時が来ました。今日神のことばは、聖書を通して、私たちに伝えられています。神が人間に何を思い、何をご計画しているかは、まず聖書を通して知られるのです。私たちは神のみこころを探り、その祝福と恵みに与る必要があることでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.聖所の務めに与る少年サムエルとエリ
サムエルが神殿にあずけられたのは、大体3歳ぐらいであったとされる。主の宮に仕える者となるように祭司エリの教育にゆだねられたわけである。サムエルはエリの家族らと一緒に育てられていく。それは、良いようで実際には好ましい環境ではなかった。しかしサムエルは、エリの子どもたちには影響されず、毎年手作りの上着を差し入れする母の祈りに守られ育っていく。そんなサムエルが、神である主に出会う出来事があった。
主はサムエルを呼ばれた、とある。シロにあった神殿については、幾度か考古学的に調査が行われたが、おそらく神殿が建立されていたと思われる頂上部分の浸食が基盤まで進んでいたことのために、何一つわかっていない。けれども、他の地域で発見されたイスラエルの神殿と考えられているものから推察すると、ソロモンが後に建てたエルサレムの神殿とは幾つかの部分で違っていた、と考えられている。たとえば、それは、聖所・至聖所の二つの部屋ではなく、一つの部屋で構成されていた。したがって、それは縦長の構造ではなく、幅の広い部屋であった。さらに、長い西壁には一種の「至聖所」とも言うべき奥まった壁龕(へきがん)が設けられていた。そして相対する東壁外部の内庭には、土と自然石で作られたいけにえを献げる祭壇が、さらに内庭を取り巻く小部屋が務めをする祭司のために設けられていた。
だからサムエルは、西壁の壁龕に「神の箱の安置されている」部屋で寝ており、エリは内庭を取り巻く小部屋の一つで寝ていた、と考えられている。それは、エリの視力が落ち、サムエルがエリに代わって、聖所の務めをなしていたこと、つまり、聖所の灯火を守り続けていたことを意味していた。そして早朝に神の声をエリの声と勘違いして、エリの側に駆けつけたサムエルは実に忠実にこの務めをしていた、ことを覚えさせるものである。
2.サムエルを呼ぶ神
ともあれサムエルには神が語りかけていることがわからなかった。聖書は、この時代、神のことばはまれにしかなく、幻も示されなかったと語る。神のことばの飢饉の時代であった。そんな時代に神は、少年サムエルに語りかけられた。だからサムエルがわからなかったのも無理はない。彼は主人のエリが呼んだのだと勘違いしたが、三度目に、それは、エリではなく神が呼んでくださっていることを教えられる。
サムエルはエリに手ほどきを受けて、主のことばを聞くことを、教えられる。「9節。今度呼ばれたら、主よ。お話しください。しもべは聞いております」と申し上げなさい。エリの助言は適切であり、サムエルもまた、その助言に素直に従った。サムエルは、語りかけられる神に対して心を開き、耳を傾けた。「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」クリスチャンにとって、もっとも大切なのは神のことばを聴くこの姿勢である。ただサムエルの場合は、実際に音声として、彼の耳に神のことばは聞こえたのである。そしてさらに「主が来られ、そばに立って」(10節)とあるように、目に見える形で現れた。サムエルは自分の耳と目で神の言葉を受け止めた。
私たちの場合は、しばしばそうではないが、神のことばはすでに与えられている。つまり、聖書を通して神は語りかけておられる。大切なのは、神が意思し、語られる事柄がある、ということだ。主が語り、しもべが聞く、という図式である。一般に宗教というものは、神なるものを宥めて私たちの願いを叶えてもらおうとするもので、しもべが語り、主が聞く、聞いてもらう、というものであったりする。しかし、主権は主にある。神が私たちに、語ることがあるのであり、被造物である私たちはこれに聞かなくてはならない。
3.与えられた神のことば
サムエルが耳を傾けて聴いたことは、エリの家に対する神のさばきであった。しかし神の裁きは初めて語られたわけではない。すでに、「神の人」がエリのもとに遣わされ、エリの家が祭司職から退けられ、新たに忠実な祭司が起こされると語られている(27-36節)。サムエルに対する神のことばは、エリに対する二度目の警告である。「エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない」(14節)と語られる。神の厳しさを思わせられるが、ヘブルの著者も、「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:26)と語っている。イエスの十字架の恵みは永遠に有効なものであるとしても、その恵みを拒み続けるならば、その他のいけにはありえない。パウロが勧めるように「罪に対しては死んだ者、神に対してキリスト・イエスにあって生きた者」(ローマ6:11)という自覚のもとに、神の恵みの中に生きることを願わなくてはならない。しばしば神のことばは、悔い改めを求め、さばきを伝える耳痛いものである。神の言葉を聞くというのは、自分の期待どおりのことばを聖書の言葉の中に探すのとは違う。ただ神は、人を愛し、善意に満ちたお方であることを忘れてはならない。神は上から、私たちの思いを超えて語られるが、それは聴き従う者を守り、救う恵みのことばである。
神は、聖書を通じていつでも語っておられる。サムエルのように心を開き、神が語りかけておられることを聞き分けるようにしよう。

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