ヨハネの黙示録5章

ヨハネの黙示録5章 三位一体の神への賛美
1.巻物のエピソード(5:1-5)
5章は、基本的に4章の続き、天上の出来事を描いています。ヨハネが天に昇って、そこを覗いてみると、その中心には神がおられた。そして、そこには自分の努力や勝利を誇らない、実に謙遜な人々が神を礼拝していたというわけです。続いてヨハネが目撃したもう一つのことは、その御座に着いておられる方の右の手にあった「巻き物」です(1節)。その巻物には封印がされていて、誰も開くことができなかったというのです。この時代の巻物は、パピルス紙で出来ていて、縦25センチ、横20センチ程度の一枚の紙を長くつなぎ合わせて作られていました。普通は、片面に文字を書き、中身は全く見えません。しかしこの巻物「内側にも外側にも」文字が書き記されているのです。相当長い文書だったのでしょう。問題は中身が一部見える。何だろう、6章以降に描かれる終末の出来事を書いていると思われます。はて、中身を見たいが、なんと七か所も封印されていてそれを開くことができる人もいない(3節)。それでヨハネは、なんてことだ、大事なことを知ることができないなんて、と泣いていたわけです。すると、その封印を解くのは、人間ではない。ユダ族から出た獅子、ダビデの根がするのだ、と語られるのです。創世記には、「ユダは獅子の子、王権はユダを離れず」(49:9)とあります。ユダの子孫からダビデ王が出て、ダビデ王の子孫からイエス・キリストが誕生しました。その背景を踏まえて考えると、ユダ族から出た獅子、ダビデの根とはまさにイエス・キリストのことでしょう。そう封印を解くのはイエス・キリストだ!というわけです。大事な点ですね。終末を解き明かす。それは人間にできることではありません。まことの神の子イエスのすることである、というわけです。
2. 礼拝される御子キリスト(5:6-14)
 こうしてヨハネの目は、神から巻物を受け取るイエスに向けられていくのです。するとイエスの姿に変化が生じるのです。先ほどは「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」、それはまさに勝利者としてのイエスのイメージでした。それが今度は6節、「屠られた姿で子羊が」と言うように、殉教者のイメージで言い換えられるのです。ちょうどコインの裏表をひっくり返すような形、片や勝利者、片や殉教者、復活し勝利した戦士イエス・キリストと、十字架上に犠牲としてささげられた小羊イエス・キリスト、二つのイメージが語れるのです。
そしてこのイエスが礼拝されます。注目すべきは、そこにいた、四つの生き物と二十四人の長老たちが手に持っているものでしょう。先に彼らは勝利の冠を頭にかぶっていましたが、今度は竪琴と金の鉢を持っているのです。神を賛美するため竪琴を持っていたというのはわかります。では香に満ちた金の鉢は何か。それは聖徒たちの祈りであると説明されます。どうでしょう、私などは一種感動を覚えるところですね。
キリスト教会は、世界の平和のために、また人々の魂の救いのために、祈りを積み重ねてきました。「祈って何になるの」と毒づかれることがあっても、黙々と毎週、毎朝、教会に集まって祈り合ってきたのです。なんとその祈りが、金の鉢に蓄えられていた!祈りは香が立ち上るように、天に向かって立ち上ります。それは、途中で空しく消え去ってしまうものではなく、なんと神は、「金」の器を用意してそれらの祈りを一つ残らず大事に集めてとっておいてくださった、と言うのです。だからこそ感動をもって、竪琴を奏でながら、新しい歌も歌われるのでしょう。一般に「新しい」と訳されるギリシア語は、二つあります。時間的に新しいことを意味する「ネオス」と質的に新しいものを意味する「カイロス」で、黙示録では一貫してカイロス、つまり質的な意味での新しいが使われます。つまり新しい歌は、これまでにはなかった質的に新しい歌ということでしょう。
4章では、礼拝の中心は天地創造の父なる神、5章では御霊を持つ子羊イエス・キリストです。つまり三位一体の神に対する天の御国での礼拝の壮大な光景が描かれている。そして当時の読者たちは、この黙示録を読みながら、ローマの支配に勝るもう一つの偉大な支配に思いを馳せたわけです。先にヨハネは、苦難にあったスミルナの教会に「恐れることはない、苦難は一時だ」と語り掛けました。あなたがたの祈りは無駄にならない、そしてこのような栄光が待ち受けている、と語っているのでしょう。また先にヨハネはペルガモの教会に「悔い改めなさい」と言いました。迫害の困難の中で妥協してはならない、やがて私たちはこのように主の前に立たせられる時が来るのだ、と具体的なイメージを与えているのです。死んだら終わりではない、というのは、こういうことです。では今日も良い一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「聖書で虹が最初に出てくるのは、どの箇所でどんな意味を持ったでしょうか?」答えの聖書箇所は、創世記9:13です。そこには、大水で人類が滅ぼされたノアの箱舟の物語が描かれていますが、虹は、その洪水の終わりに、神がノアと結ばれた永遠の契約のしるしとして出てきます。その虹が天にもある、まさに神の約束は永遠であるという意味です。では今日の聖書クイズを一つ。黙示録の四つの生き物の原型は、旧約聖書のどこから来たと考えられているでしょうか?①創世記、②詩篇、③エゼキエル書、答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!

“ヨハネの黙示録5章” への1件の返信

  1. 福井先生

    本日も有難うございます。

    福音書記者ヨハネにとって、
    「子羊」とは、敬意を表す婉曲、
    あるいは古典からの引用による説得といった、
    文学的手法ではない。
    神秘的な演出などではもちろんない。
    単純に直接に、救い主を表す名前なのだと思いました。

    絵画などで刷り込まれたイメージが私の中にあります。
    キリスト教絵画は、聖書を文字で読むことの困難な人々に教理を伝える役目を果たしたと聞いています。
    私は、伝道や翻訳、教育の賜物を享受しており、
    有り難いことに、母語で聖書を読んでいます。
    まず、文字情報からしっかりとメッセージを受け止めよう、と
    思いました。
    あまりにも、当たり前の感想ですみません。

    外的要因というと大げさですが、
    子羊をそのまま描く多くの絵のインパクトが(巨匠の傑作であるがゆえに)とても強いこと。
    (絵画の素晴らしさは変わることなく、私は大好きですが。)
    黙示や預言について神秘的なとらえ方が世の中に流布していること。
    これらの影響を自分が強く受けて育ったことを感じています。
    そのせいで聖書の文言への熱心が減じるのでは、偶像礼拝の疑いが濃厚です。

    …と自らを戒めました。

    S.A.

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