レビ記11章

皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。11章から新しい区分、これまでの流れを確認しておきましょう。ビジョン、ミッション、バリューという今はやりの考え方で言えば、レビ記はバリュー、神の民が備えるべき価値観を示すものです。よくよく自分の考え方、価値観に照らして、理解を深めたいところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 創世記が神の民としてのビジョンの提示であるとすれば、ビジョンを実現するためにしなければならないミッション、いわゆる新しい出発を示すのが出エジプト記である。そしてレビ記は、神の民としてのビジョンをいかに実現するか、神の民らしい実現の仕方、神の民の価値観、物の考え方を示す、今はやりの言い方で言えばバリュー(価値)を示す重要な書である。
レビ記のこれまでの流れを見ると、ささげ物の規定(1-7章)、ささげ物を献げる祭司についての規定(8-10章)の後、11章ではまた新たな話題が提起され、以後どうも雑多な事柄が、羅列されていく印象である。しかしながら、1-17章と18-27章でははっきりとした趣旨の違いがあるとも言われる。前者は、礼拝と幕屋に関連し、犠牲によって神に至る道が描かれ、後者は、実践と行為に関連し、聖化によって神とともに歩む道が示されているという。つまり、前半は神に近づく者として聖俗を区別すること、いわば罪からの汚れを扱い、後半は汚れを取り除かれた者のきよい生き方を扱うことになる。そういう流れからすると、この11章は、聖い食物を区別することを教えている。したがって11章以降は、出産(12章)、病(13-15章)、いけにえ(16章)において聖俗、つまりきよいものときよくないものを区別すべきことが書いてある。
1.聖い食物
 まず食べてよい生き物の区別。四つ足の動物について言えば、ひずめが全く分かれ、反芻する動物だけ食べてもよいが、同じようにあごを絶えず動かし反芻する動物に見えても、らくだ、岩たぬき、野うさぎ、豚については食べてはいけないとされる。水中の動物は、ひれとうろこのある魚だけは食べてもよいが、うなぎ、貝、えび、かに、かき、かえるなどは食べられない。鳥の場合は、腐った肉を食べる猛禽類がだめである。羽があって四つ足で歩くというのは、いわゆる昆虫類を食用にしてはならないということになる。区別のポイントは何か、いくつかの説がある。異教のいけにえの儀式と類似するものを避けようとした、衛生的理由があった、などだが、むしろここは、ケロッグが言うように、食用として区別されるものは、神にささげられるものだという理由なのだろう。つまりイスラエルの民は、神にささげられるものをもって食事として区別するように命じられている。
今日、私たちはあまりこのような区別を意識していない。日本人にとって豚もうろこのないうなぎも美味しい食べ物である。新約聖書も、こうした食糧の区別は、ペテロの幻にも見るように(使徒10章)あまり重要視していない。むしろ、新約聖書は霊的なものの区別に関心を向けている。パウロは語っている。「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現わされますように」(ピリピ1:10-11)。霊的な識別力を働かせ、ことばや思い、行為、振る舞い、何にせよ、神にささげられるものをもって、自らのものとしていくことを教えていく。ユダヤ人が神にささげられるものをもって、食事としたように、神にささげられるものをもって、私たちの姿勢や生き方としていくことを覚えたいものである。
2.汚れをもたらすもの(24-28)
 後半24節からは、汚れをもたらすものに注意すべきことが語られる。簡単に言えば死んだものであり、死体に触れたものは汚れている、ということになるのだが、これらの定めは、実際的には、保健衛生的な意図を持つものだろう。
 神の聖さに与るというのは、当時のユダヤ人にとっては、今日の私たちが保健衛生的なことと理解し、ほとんど宗教的な要素を感じない事柄に及んでいる。つまり、神の聖さに与るというのは、日常性の中でのことであって、それは、衛生面に気遣う事を含むのである。そういう意味では、信仰を持つととってつけたような信仰生活をしてしまうのが日本人である。付け足しの礼拝、付け足しの教会生活があるだけで、礼拝的な生活、キリストを中心とした生活があるわけではない。日常性と信仰性が融合しているのではなく、分離しているのである。
しかし信仰を持ったなら、自分の生活全体を見直していくようにしたい。ただ礼拝が生活に加わった、教会での奉仕をするようになった、というのではなくて、食事をするにしても、家事をするにしても仕事をするにしても、根本的に私たちのあり方が変わって行くのが信仰を持つことなのである。日常性にあって、この人には確かに神がついておられる、とはっきりわかる考え方、生き方をさせていただこう。

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