17章 ささげ物に関する注意事項
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の箇所は、ユダヤ人にとって血が特別な意味を持ったことを教えます。それをよく理解すると、イエスの十字架の意味が、さらに深まります。日本人的な発想を超えて、聖書の世界に耳を傾けたいところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.ささげ物に関する注意事項
イスラエルの民は、どのようにして神の前に出ることができるか、これがレビ記の前半の主題であり、そのクライマックスが16章の贖いの日の定めであった。後半は、その16章を前提として神との交わりを続ける条件が述べられている。つまり交わりを妨げるもののみならず、それを深める条件について語っているのである。
1)屠った家畜は必ず主にささげる(17:1-9)
まず、家畜、つまり牛、羊、やぎを、宿営の内か外で屠った場合、それは、必ず会見の幕屋の入り口に持ってきて、いけにえとしてささげなければならなかった。無意味無目的に動物を殺すことは禁じられた。イスラエルの民は、このようにして偶像礼拝を避け、まことの神のみとの交わりを保持するのである。実際7節、「雄やぎの偶像」は、ナイル川下流域のエジプトの慣行となっていたやぎ礼拝を指しており、イスラエル人も何らかの影響を受けていたとされる(ヨシュア24:14)。イスラエルの民は、こうした異教の偶像礼拝と迷信に一線を画し、異教の神にささげものをすることから解放されなくてはならなかった。そしてまことの神のみを仰ぎ、まことの神にのみささげ物をする、新しい習慣へと導かれなくてはならなかった。だから家畜が屠られたなら、それは、必ず会見の天幕に臨在する主にささげられなければならないと教えられたのである。礼拝は、まことの神にささげるものであり、神が喜ばれる、神が定められた方法でこれを行うことである。
2)血を食してはならない(17:10-12)
10節からは、血を食することへの禁止である。今日、ユダヤ教では、食べてよい食物と食べてはいけない食物を定めており、食べてよい食物を一般にコーシェルと言うが、肉については、すっかり血を抜くことが定められている。肉屋で、コーシェルの肉を買ってきて、さらに家庭で調理する前に、その肉にある残りの血を抜くのは主婦の仕事である。なぜ、そのようなことをするのか、と言えば、やはり、血には特別なきよさが与えられている、と教えられたからなのであろう。事実、ここで神はきよい動物の血を贖いの手段として教えられている。いけにえにされ注がれた血は、いのちが神にささげられたことを可視的に表現しているのであって、その死によって、人の罪は償われたのである。血は神聖であり、不可侵である。異邦人の中には、動物の血を飲んだり食べたりする習慣があったが、イスラエル人は、このような血の意義について教えられ、どんな血でも食べることを禁じられた。血は、食用ではなく、祭壇に注いで、人間の贖いの手段となるためにのみ用いられたのである。だから、血は、決して軽々しく扱うことはできない。たとえそれが、いけにえにささげるものではなくても、つまり狩で流された血であっても、その血は尊く取り扱われなくてはならなかった。実際、狩りで流されたものは、地面に注ぎだし、その後、土で覆わなければならなかった(13節)。こうして、いのちは自らが生まれてきた地に帰るのである。血はいのちの象徴、いのちの聖なることの象徴だからである。
ただ、現代の私たちには、そこまでの血に対する理解はない。日本人は血を食用とはしないし、また血を流すことについては嫌悪感を持つことはあっても、それによって人間が贖われると考えることはない。血は尊いものであって、神と人との交わりを実現するものである、という理解には至らない。
しかし、こうした血に対する理解を改めて深めてみることが、キリストの血による義認と赦しの理解につながる。パウロは、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ1:7)と語っている。聖書において血は、特別な意味を持つ。そしてキリストが流された血についても、その意味に基づいて解釈されている。
聖書を学ぶことは、こういう私たちの文化にはない考え方を学んでいくことであり、私たちの理解の足りないところを謙虚に教えられていくことに他ならない。実際、人間は、常に自分の思考の枠組みを超えることがなければ、真理を味わうこともない。自分の考えを単純によしとするのではなく、自分自身の考え方を改めて見直してみる。そして、修正すべきものは潔く修正する、信仰の道に入ることは、考え方を変える、発想を変えられることに他ならないのである。