レビ記18章

18章 異教的習慣からの分離(近親姦,同性愛,獣姦)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の箇所は、儀式上よりも倫理的な汚れを意識し、神の民としての高い倫理に生きるように教えられているところです。しかしどんなに倫理の高嶺を目指しても、不完全な者であることを覚えなくてはなりません。ただ主イエスの十字架の憐れみの中に、霊的に、倫理的に前進するように許されていることに感謝するまでです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.基本的原則(18:1-5)
これまでは儀式上の汚れについてその掟とさだめを語ってきたが、18章では、道徳的な汚れについてのそれらを語っている。「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない(3節)・・・あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である」(5節)と語られる。
つまり神の民としての道徳基準についてその基本原則が語られ、同時代の他の国の習慣と対比されている。彼らは、過去の慣わしを引きずるのではなく、また新しい土地での習慣に染まるのでもなく、上からの掟とさだめに倣うように教えられた。イスラエルの民にとって、それは、エジプトやカナンの文化風習と区別された生き方をすることであって、具体的に、当時の周辺諸国に見られた近親姦(6-18節)、不倫(20節)、人身犠牲(21節)、同性愛(22節)、獣姦(23節)をイスラエルの国から除き去ることであった。
確かに、神を信じて生きるということは、これまでの生活にただ毎週礼拝に通うという宗教儀式を加えることではない。それは、神に親しんで、神のみこころにかなう品性や人格を養い育てつつ、新しい人生を生きることである。それは体裁上よい人となるというのとも違う。純粋に内面の実を結ぶことに他ならない。したがって近親姦が戒められているのは、それが、不妊や異常児の誕生を招き安い遺伝的な危険を持っているからだけではなく、また、テント生活の遊牧民には起こりがちな一時の激情の結果による性的搾取やそれに伴う家族間の苦悩を防止するのみならず(18節)、神の聖さを着せてくださるその恵みに与ろうとするためである(19:2)。
2.違法な性的交わり(18:6-23)
実母は当然ながら、継母、姉妹、異母姉妹、孫、継孫娘との結婚と性的関係が禁じられている。しかしこれはイスラエル人にとっては新しい内容も含んでいる。というのも、アブラハムは異母姉妹と結婚しており(創世記20:12)、アムラムも、叔母のヨケベテをめとりアロンとモーセを産んでいる(出エジプト6:20)。主に従う倫理観は、私たちの世的な慣わしを超えたところにある。イエスも、「彼らのまねをしてはいけません」(マタイ6:8)と言われた。世の風潮や習慣がいかであろうとも、神の民として生きる倫理がある。同様に、同性愛(22節)が戒められる。同性愛については、神学的にこれを理解するための少なくとも、全的に受け入れる立場から全く拒否する立場まで、段階的に四つの立場があるが、ここでは単純に「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない」と戒められている。
大切なのは、人間の罪の現実は、生まれつきのものであることだ。エレミヤが「豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができるだろう(エレミヤ13:23)」と語ったように、不倫、不品行、盗み、どん欲、よこしま、欺き、ねたみ、高ぶり、愚かさといった人間の罪の現実は、神の力なくしては解決することができない。それらは人間の意志ではコントロール不能な、内側から湧き上がってくるものだからだ。医学的、生理的に変えがたい現実がある。イエスの十字架と復活の望みがあればこそ、どんな罪人にも救いの希望がある。
3.原則の確認(18:24-30)
ここで中心となるのは、主の民は主の戒めを守ることである。主を愛するとは言うが、実際生活は全くそれにそぐわない生き方をしてしまうのが人間の常である。性倫理の点においては、全く乱れはないとしても、他の点で、妬みや高ぶりの点で全くどうしようもない状態にあるのが人間である。性の掟とさだめはモーセの十のことばからすれば、その一つに過ぎない。性の掟と同列に、安息日の定めがあり、父や母を敬う掟があり、さらに、むさぼりへの注意が語られている。主に従う生き方が完全にできたならば、クリスチャンは本当に尊敬に値する存在になるのかもしれないが、実際には、クリスチャンとは言えども、世の人々の目には、自分たちと何ら変わらない俗人に見えていることもあるだろう。つまり人間は、不完全であることから逃れられないのである。しかし、そうであっても、完成へ向かう、主に向かっている真摯な姿勢があるかどうかなのである。ともすると、主よりも自分の都合や、自分の関心、自分の欲望を優先させてしまう、この世の生活と変わらぬ現実がある。色々と言い訳をする前に、主にある者として、いつでも自らを仕切り直しをして生きていく勇気を持ちたいものである。

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