1.イテロの来訪(18:1-12)
エジプトからの脱出に成功したことを聞いたモーセのしゅうとイテロが、娘チッポラと二人の孫を連れてシナイ滞在中のモーセを訪れた(2,3節)。イテロは、出エジプト2:18では、レウエルと呼ばれ、ミデヤンの高い地位にある祭司であったとされる。それまでモーセは、単身主に仕えていた。その期間の試練をモーセは、神と共に乗り越えている。しかしそれが人間にとって基本的な在り方である。人は常に人に支えられることを求める。自分の家族、親族、あるいは友人によって難局を乗り越えようとする。それが得られないのならば自分は無力であると思うこともあるだろう。しかしそうではない。難局を乗り越えさせてくださるのは、共におられる目に見えない神である。永遠に共に歩んでくださる神の実在をしっかり覚えながら、あらゆる境遇に処すべきであり、その上で、主の与えられた家族、知人・友人との交わりを楽しむことが大切なのである。重荷を担ってくださるのは、主ご自身である。モーセは、家族に再会する。
モーセは、これまで主がイスラエルのためにしてくださったこと、困難、救いの次第を語った。イテロはその話を聞きながら、イスラエルの主の卓越性を確認している(11節)。イテロは、ミデヤン人であり、一般に聖書はミデヤン人が偶像崇拝者であるとしている(民数25:17)。だからイテロはここで唯一のまことの神を初めて知った、あるいは、モーセと同様、その存在を教えられていながら、改めて教えられていたことの実態、つまりイスラエルの神の素晴らしさを味わい確認した、ということなのかもしれない。ともあれ、家族共に、神の卓越性を覚えることに優る素晴らしさはない。事実、主にある兄弟姉妹と共に、神の素晴らしさを味わうことが教会の本質である。
2.さばきつかさの任命(18:13-27)
さて人が多く集まるところには必ず問題があるものだろう。モーセは、イスラエルの民に起こる、様々なもめごとの仲裁をしなくてはならなかった。しかし、約200万近い民の問題解決に、モーセ一人で対処したというのは、理解し難い。おそらく、400年という長い奴隷生活の流れの中で、イスラエル全体を統治する機構は、ほとんど、発達しておらず、彼らは単なる烏合の衆だった、ということなのだろう。
イテロは知恵ある助言をしている。「民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなさい。」(21節)。人を選んで、責任を依託せよという。テトスが、町ごとに長老を任命しなさい、とパウロに命じられたことを思い起こすところである。牧師の責任の一つは、何もかも自分で背負うことではなく、力のある人に働きを委ねていくことである。
その際に、どういう人を選ぶかは、重要である。イテロの助言は三つのポイントを提示している。第一に神を恐れる人。日本人は、キリスト教の天地創造の神をなかなか理解できない国民である。だから、キリスト教信仰を持って、天地創造の全能の神を教えられていながら、いつまでも悩みを抱え、物事に悲観的である人は多い。見かけではなく、本当に神の実在に生き、神を恐れて、神の御前に信仰に生きている人を選びなさい、という。第二に、力のある人々。これも見せかけではなく、本当に実力を持った人を選ぶことである。どこにでもやりたがりの人はいる。言葉巧みな調子の良い者も多い。パフォーマンスが派手で魅力を感じさせる人も多い。しかし本当に必要なのは、与えられた責任にしっかり取り組んで、成果を出す、実を結ぶ人である。そういう人であればこそ物事を任せることもできるのである。第三に、不正の利を憎む誠実な人々。やはり正直さ、誠実さを持った人であること。能力があっても、誠実さの無い人では物事は任せられない。
モーセはイテロの助言を受け入れた。どうやらこの制度は、ミデヤン人の慣行に倣ったかのようである。しかしイテロは「神があなたにそのように命じるなら」(23節)と、自分も認めた神のみこころを慮っている。モーセが受け入れたのは、神のみこころと認めたが故であり、単に他国の制度を真似たわけではない。パウロは、「すべて信じるなこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい」(ピリピ4:8)と語ったが、心を留め、取り入れる判断基準は「神のみこころ」にかなっているかどうかにある。
私たちが何事かをなそうとしたら、人選は重要である。初代教会で最初に使徒たちの働きを手伝うために選ばれた執事たちの条件も、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」(使徒6:3)であった。御霊に満ちるというのは神に認められた者、知恵に満ちたというのは適材であるということ、評判の良い人たちというのは、人に認められた者ということであろう。そのような人が起こされるように祈り、委ねていくようでありたい。