出エジプト記3章

 モーセが、羊を連れてやってきたのはホレブの山である。ホレブはシナイとも呼ばれ、その使い分けについては、シナイが古い呼び名であるとか、ホレブがセム系的な呼び名であるなど種々説明されているが、定説はない。その具体的な位置についても、はっきりわかっておらず、伝統的には現在のジェベル・ムーサであるとされてきた。それは決定的な信仰的な経験であったにもかかわらず、イスラエルは、その地を記念して巡礼の場とすることもなく、正確にそこがどこであったのかについては気にも留めていなかった。それは南方にある、という認識でよしとしたのは(申命33:2)、主の遍在性を受け入れていたためなのかもしれない。これは、神々が北の山に住んでいると、神を地理的に結び付けて考えた当時のパレスチナ人の信仰とは異なっている。れ
さてモーセは、そこで柴、おそらくアカシヤの木であろうと考えられているが、燃えているのに焼けつきない不思議な現象に出会う。それは超自然的な現象であったのか、自然現象がそのように好奇心をそそるものとして見えたのかは、わからないが、モーセの心をひきつけた。近づこうとするモーセを、主が名指しで呼び止められる。そして主は語られた(6)。ご自身がイスラエルの痛みと苦悩を心に留めておられること(7)、契約に基づいた(2:24)救いの計画を持っておられること(8)、その計画を実現すべく、モーセを選ばれたこと(10)を告げられる。神は、個人的にモーセを召し出された。しかしモーセはその神の召しに戸惑うばかりである。
そもそもモーセはもはや王族の人間ではなく、世間から切り離され、その日暮らしをするただの羊飼いに過ぎなかった。かつての失敗とミデヤンの地での40年の生活は、モーセを謙虚にさせたが、さらに自己不振に陥らせていた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行かなければならないとは」(11)。彼は神のなさろうとしていることに無関心であった。極度の自己不振は、結局無気力さに人を閉じ込め、神の臨在の恵みの機会を無にしてしまう。そんなモーセに神が優しく語りかける「わたしが、あなたとともにいる」と。人が見捨てても、神は見捨てられない。神は共にいて、モーセの人生を導かれる、と。神は、モーセに具体的な使命を語り聞かせ(16-22)ご自身の使命に答えることを期待された。そこでモーセは、そのように語る神がどのような方なのかを知ろうとした。モーセは、神の名を聞いたというよりも、神の性質を聞いたのである。神をもっと知りたいと思ったのだ。
神は、「わたしは、『わたしはあるもの』という者である」と答えられた(14節)。「ある」と訳されているヘブル語動詞は、「存在する」を意味するハヤーであり、その時制は、継続を意味している。つまり、「わたしは存在していたし、今も、そしてこれからも存在し続けるであろう」という意味になり、神の自存性、独一性、永遠性を物語っている。つまり神は、ご自分だけで完結し、あらゆる神々をしのぐ、唯一の存在であり、永遠に変わることがない(ヘブル1:12)。
しかしながら、このことばは、補語を付けて初めて意味をなす、英語のbe動詞「~である」と同じような機能も果たす。つまり「わたしは(光)である」「わたしは(いのちのパン)である」「わたしは(良い牧者)である」というように、後のイエスは、補語をつけて神を解き明かした。光であり、いのちであり、よい牧者としてかかわってくださる神が、モーセとともにいて、モーセを送り出そう、というわけである。
ともあれ、神は不思議なお方である。神はご自分が、「父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であることを明らかにされるが(15節)、それは、息子のいない男に息子を、土地を持たない遊牧民に土地を、無名の男に名声を約束し、その約束を果たされた歴史を示している。それから400年経って、再び神は、かつての約束のことばを持ちだされ、その考えを変えることもなく、イスラエルの民を見守り、これを救い出そうとすることを語り掛けられるのである。「乳と密の流れる地」つまり耕作地ではない牧草地を意味する。それは、遊牧民のイスラエル人にとっては実に魅力的な地である。一国の奴隷として縛られて生きていたイスラエル人が、解放されて、もはや苦役ではなく、自らの仕事を楽しむ自由を与えられることが約束されている。果たしてそれが起こりうるのか。状況は極めて絶望的である。しかし神は言う「彼らは多くの財産をもって、そこから出てくるようになる」(創世記15:14)。神に不可能なことはない。神は永遠にいて、且つ全能の神である。神は私たちの常識を打ち破る。どんなに不可能と思われても、神が是とされることは是となり、どんなに可能と思われても神が否とされることは否となる。なのに、神の是を否とし、神の否を是としたがるのが、罪人の性であろう。
モーセは、明らかにチャレンジを与えられた。自らの不信仰と向かい合うようにされた。しかもそれは彼自身のためではなく、神の民族のためのチャレンジである。彼は、ヘブル人を奴隷から解放するのみならず、ちゃんと補償をつけて解放することを求められている「こうしてあなたがたは、エジプトから剥ぎ取りなさい」(22節)。奴隷は奴隷として仕えた年月を補償されて出ていかなくてはならないのである。そして神は、モーセに、あなたと共にいてそれを可能にしよう、という。無を有とされる神と共に立ち上がるかどうかが、問われていた。主が聖霊によって、私たちの霊の目を開いてくださるように。神は無に等しき者を富ませる恵み深いお方であり、私たちと共にいると約束される。

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