出エジプト記5章

 民の信頼を得て、モーセとアロンがファラオのもとへと出かけていく。「イスラエルの神、主がこう仰せられる」とモーセは主の代弁者となった。「わたしの民を行かせ。荒野でわたしのために祭りをさせよ。」これは非常に大胆な発言だった。ファラオは太陽の申し子であり、最高位の神々の寵愛にあずかり、神と等しい礼拝を受けるべき存在と考えられていた。つまりファラオの命令は絶対であり、ファラオが他のものに従うことはありえない。「主とは何者だ」ファラオは、自分の絶対的な権威に対して、大胆に挑戦する者があろうとは信じられなかった。ファラオの不興を買って、ヘブル人は、一層の苦役を強いられることになった。
当時のレンガはひび割れを防ぐために藁を混ぜて作られた。藁の供給を止められて、ヘブル人たちは、自分たちで藁の代用品となる刈り株を集めなくてはならなくなった。これは、目標量に達するために、労働時間を大幅に増やさなくてはならなくなった、ということである。
 ファラオとの会見がかえってイスラエルに災いをもたらし、民の怒りとなった時、モーセは、主のもとに来て訴えた。慎重のうえにも慎重を期し、主の召しに従ったモーセにとって、それは予測もできなかったことであり、受け入れがたい結果でもあっただろう。しかし、神のみこころだからといって物事がたやすく運ぶわけではない。神のご計画に沿ったはずのことが大きな障壁に阻まれることがある。
しかし考えてみれば、もともと、人間が容易くやり遂げられるようなことを、なぜ神が命じるであろうか。神はご自身の栄光を現わすために、ご自身の計画を進められるのであって、神の業はまだなされていない。私たちは神の業を見るために、まずは、私たちが立ち向かう相手の手ごわさを知る必要があるだろう。あるいは、取り組む物事が如何に複雑で面倒で、解決の糸口が見つかりにくいものであるかを知る必要があるだろう。最初っから躓くというのは、これが神の力を必要とするということを、私たちが深く自覚するためである。神に従い、神の働きを進めることは、私たちの力を越えたものなのである。
わらや切り株を自分で集め、さらに同じ量のレンガを作る命令は、極めて過酷なものであった。そこで、イスラエル人のかしらたちが、ファラオに直訴している。神の申し子であるファラオのもとに、下々の者が出ても、相手にされないことはわかりきったことであるが、イスラエルの民は追いつめられていたのである。イスラエル人に対する王の心象は、いよいよ悪化し、怒りは憎悪と化した。19節、イスラエルのかしらは「これは、悪いことになったと思った」と言う。実に、「これは、悪いことになった」と思われるようなことが私たちの人生には起こるものだろう。動けば動くほどに、物事が空回りし、分解していく、いよいよ事態は最悪になり、終わりだと思われることがあるものだ。
イスラエル人のかしらたちを心配してモーセとアロンが迎えに来た。かしらの怒りが爆発する。モーセとアロンは、イスラエルの民が荒野でいけにをささげるために、しばらくの間出ていくことを請願した。それ自体が無謀な要求である。そしてかしらが、ファラオとイスラエルの関係修復を図ろうとした。しかし事態はますます悪化した。怒りがモーセとアロンに向けられるのも当然のことだろう。モーセがかしらの怒りを受けて、神に訴えている「何のために、私を遣わされたのですか」「あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救いだそうとはなさいません」(22,23節)。  
トゥルナイゼンは、牧会というのは、相談者の言葉を聴きながら、そのことについての神の言葉を求めることである、という。相談者の言葉に聴いてそれに応答するのではない。聴いて、さらに神の御心を聴き、神の答えを求めるのである。確かに、すべては神から出たことである。神以外に事態は収拾しえないことがある。困難に際しては、何よりも主に、どうしたらよいのか、主が助けてくださるように、祈る者でありたい。

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