かつてリベカが体内で争う子どものために神の御心を求めた際に、神は「兄が弟に仕える」という御旨を明らかにした。神はエサウではなくヤコブを選び、アブラハムの祝福を受け継ぐ者とされた。それは、ある意味で不公平のようでもある。神は、この世の秩序を無視して、主権を振りかざす、横暴な主人のように思わされるところだろう。
しかしそうではない。というのも神は、ご自身の祝福を与えるにあたり、この世の秩序を無視することはないのである。実際、兄のエサウは物質的には、父の祝福をそのまま受け継いでいる。父の祝福を受けそこなったのはヤコブである。そして後に、弟ヤコブが家族と共に、父の家に戻ろうとした際に、兄のエサウは、400人の僕を連れてこれを迎えるまでに、豊かな暮らしをしていた。兄のエサウが弟のヤコブに譲ったのは、約束の地に住まう祝福である。
だから神が主権的に与える霊的な祝福は何かと言えば、それは約束の地において、ヤコブを祝福されることであり、約束の地は、人が見捨てるようなところ、あるいは譲るような土地であれ、神が祝福するといったその場において祝福されることに他ならない。そういう意味では、天において何の祝福があろうか、と思うようなところに、確かに神の素晴らしい祝福があることにもなる。神は祝福されると約束されたところにおいて祝福を用意し、また私たちを通して、他の人々をも祝福されるのである。
当時、口頭による祝福は重要なものと見なされた。だから一度口にしたことが、たとえ自分の意図に反していたとしても、それは法的な効力を持つと考えられた。ヤコブが父を欺いて祝福のことばを得た時も、イサクが自分の祝福のことばを取り消すことができなかったのはそのためである(創世記27:23)。
しかしながら、このエピソードでは、誰もがその祝福の意味を取り違え、振り回されていたことに注意すべきである。ヤコブだけが、あまりにも人間的に器用に動いたと考えられやすいが、人間的に動いたのは、兄も両親も同じである。すでにエサウは、長子の権利を放棄していたのだから、イサクの祝福を得ようとするのは、自分の誓いを破ることである。父イサクもまた、予め神のご計画があることを知りながら、お気に入りのエサウを祝福しようとし、神の計画を妨害した(29節)。実際イサクの祝福の祈りも、子のために繁栄を祈る祈りに終始し、本来の霊的な祝福、つまり約束の地での祝福と、ヤコブを通して他民族に祝福が及ぶように祈るものではなかった。またヤコブは父イサクを積極的に欺いたが、その行動も、母リベカの入れ知恵なくしてはありえなかった(27:5-10)。リベカもまた駆け引きをし、勝利したのであるが、不当のそしりを免れ得ない一人である。こうして家族四人皆が、祝福ということばに振り回されてそれぞれの複雑な思惑で動いている。実にこの世的な家族の醜聞と言えばそれまでであるが、神の祝福を物欲的に考えて行動した結果があった。
さらに、イサクは、父アブラハムのように、自分の祝福を受け継いだヤコブの妻について心配することもなかった。イサクはヤコブを見捨て、家から追い出したのである。だが、こうした混乱を通しながらも神の偉大な計画は進んでいく。イサクの偏狂な対応が、計らずして、ヤコブを、アブラハムが幻で告げられた親族のもとへと送り出し、ヤコブの信仰を刷新し、妻を得させることになったように。実に神は、人間社会に起こるどろどろの罪の争いを通しながらも、主の素晴らしい御業を推し進められていく。
既に述べたことであるが、神の祝福の意図するところは、バベルののろいを出発点としている。それは、ヤコブの一家が相争うもとになった物質的な祝福ではなく、散らされた諸民族がアブラハムを通して一つとされる祝福である。世界が回復され和合して集うことを我が人生の目標とし、担う祝福である。物質的な祝福への拘り、思いとは違う次元の話である。そのようなものに執着するのではなく、主のビジョンに共に立つ者であろう。