再び神がヤコブに現れる。神は、べテルに移り住み、祭壇を築くようにとヤコブに仰せられた。神のご計画はベテルにあった。「住みなさい」は定住せよという意味である。ヤコブはシェケムに留まっていて、既にそこに、エル・エロヘ・イスラエルという新しい祭壇も築いていた。しかし、それは形ばかりのことであった。それは、ヤコブの子らシメオンとレビの残虐な行為によって、ヤコブの家族がシェケムに住めない状況になっていよいよ明らかにされた。実際ヤコブは、まさに土地の人々によって根絶やしにされる危機を感じていた。そのような状況で、ヤコブは神の声を聴いていく。追い詰められなくては、真に神の声を聴くことができない、人間の愚かさがそこにある。
シェケムは、エフライムの山地にある古い町で、そこには古代からの聖所もあった。アブラハムの最初の滞在地もまたシェケムの近く、モレの樫の木のある所である。ヤコブにとっては、住み慣らしていきたい最良の土地であったのかもしれない。しかし、神がヤコブに定住を求めたのはべテルであり、シェケムではなかった。私たちの思いと神の思いは異なることがあり、しばしば、私たちは神のみこころを教えられながらも、形は似ていても、別の選択をしてしまうことがある。神はそんな私たちを、みこころへと引き戻される。
どうも、神のみこころを無視して歩むところに祝福はない。ただ罪の実が生じるだけである。ヤコブは、改めてそのことを教えられたのだろう。ヤコブとヤコブの家族は、神の御心に沿わぬもの、異国の神々を取り除く決心をしていく。「苦難の日に私に答え、私の歩いた道にいつも私とともにおられた神」にのみ信頼を注ぎ、より頼んでいく決心をする。再び神がヤコブを守り、ヤコブをシェケムから脱出させた。「神からの恐怖が回りの町々に下った」(5節)というように、ここでもまた神の哀れみのゆえに、一方的な神の恵みのゆえに、守られていくヤコブの姿がある。神のあわれみは永久に尽きることがない。
ヤコブは再びベテルに戻り祭壇を築いた。かつては兄エサウから逃れて、でのことであったが、今度は、シェケムの人々から逃れてである。逃げるだけのヤコブ、けれども神はそんな弱さを持ち、愚かな罪人のヤコブを支えられる。そして再びヤコブに祝福の契約を更新する。
興味深いことに、ヤコブはここでイスラエルと自らを名乗るように命じられている。神の祝福にどこまでも寄りすがろうとした時を思い起こさせている。もしヤコブが、この新しい自己意識にしっかり生き続けていたならば、あるいはシェケムのような事件も起こりえなかったのかもしれない。ただ霊的に鈍いのはヤコブだけではない。信仰の父と言われたアブラハムも、長い時間をかけて神への信頼を築き上げている。実に、神の祝福を見出すことに疎い、私たちの霊性の低さが、私たちを多くの迷いの中に入れているのだろう。パウロは、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように(エペソ1:17)」と祈ったが、私たちは本当に、神を知る聖霊の働きのために祈り、祈られる必要があるのだ。
最後に、ラケルの死をどうとらえるか。ヤコブは、神の御心に沿うことのなかった自分の歩みを悔い改め、再び神にのみ寄り頼んで歩みを進めようとした。しかし、その後に続いたのは、最愛の妻ラケルとの死別である。人生の歩みを進めていく時に、どうも、自分の意を挫くようなことが多くあるものではないだろうか。約束の地で初めて与えられた男の子ベニヤミンに対する喜びもあったと思われるが、ラケルを失うことは大きな痛手であったはずだ。ヤコブはラケルがつけた名前を言い換えた。それは「幸いをもたらす子」を意味した。最大の不幸を受けたと思いつつも、そこから幸いが始まる、ヤコブの信仰があるのではないか。全能の主を信じ、常に前向きな歩みをさせていただこう。